《記者コラム》10年越しのレジストロ調査=日本常民文化研究所の共同研究

共同研究報告書『ブラジル日本人入植地の常民文化 民俗歴史編』(21年3月刊、同常民文化研究所)、『同 建築編』(同)

 「あれから10年経ったのか」――11月6日にオンライン開催された、国際常民文化研究機構が主催する共同研究「ブラジル国サンパウロレジストロ植民地における民具からみた日本移民の生活史の研究」の成果発表会「第9回共同研究フォーラム」を聞きながら、そんな感慨を覚えた。
 思えば10年前、2011年9月24日付本紙《日本常民文化研究所セミナー=研究者5人が次々に講演=50人が熱心に耳傾ける》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2011/110924-61colonia.html)を取材したことを思い出したからだ。
 あの頃から神奈川大学日本常民文化研究所によるレジストロ調査が始まり、それが今回の発表で一つの完結に至った。
 これだけ長い期間をかけて、ブラジルの移住地を調査してくれた日本の研究機関はごく珍しい。先日、共同研究報告書『ブラジル日本人入植地の常民文化 民俗歴史編』(21年3月刊、同常民文化研究所)、『同 建築編』(同)も送られてきた。
 両報告書には10年間の研究成果がまとめられており、パラパラとめくっているうちに、畏兄・故森幸一USP教授の遺稿、故金子国栄元レジストロ文協会長らの名が出てくるのを見て、リベイラ河の流れに通じる諸行無常さを痛感した。
 角南(すなみ)聡一郎氏の《ブラジルにおける日系移民の墓標―レジストロ市サウダーデ墓地を中心に》(37頁から)では、墓石に残された日本的な影響を観察するもので、実に面白い視点だと興味を持った。以前から、日本移民が迫害を受けていた時代には、仏教徒であることを隠すためにあえて十字架に日本語で戒名を書いていたという話を聞いたことがある。
 レジストロだけでなく、「日本人墓地」として有名なアルヴァレス・マッシャード、平野植民地、トメ・アスー植民地などの墓標も、いつの日かぜひ調べて欲しいものだと感じた。
 中でも、歴史学者の森武麿教授による論文《ブラジル移民から満州移民へ―信濃海外協会と日本力行会を対象として―》は刮目に値する研究だと感じた。海外興業株式会社によるレジストロ植民地建設、信濃海外協会によるアリアンサ移住地建設が人材的に〝地続き〟あることは、コラム子も『一粒の米もし死なずば―ブラジル日本移民レジストロ地方入植百周年』(無明舎出版、2014年)に指摘した。
 だが、この論文ではその先のアリアンサから満州移民への繋がりが詳細に分析されており、実に興味深い結論が導き出されている。
 156頁の結論部分には、ブラジル移民と満州移民の関係を3点挙げ、その一つ目に《①ブラジル移民と満州移民の差異は、前者が経済移民であり、後者が軍事移民という移民目的が異なる》と書いている。
 これを読んで、少々目頭が熱くなった。今までは「満州だろうがブラジルだろうが移民は一緒」的な論調が支配していたように感じる。だから日本では「移民」という言葉が放送禁止用語的な扱いにされたり、悪いニュアンスを持たれがちだったように思う。
 だが「移民」といっても色々あり、その国、その時代で事情が違うのは当然だ。ブラジル移民には、満州移民のように屯田兵的な役割は一切無く、純粋な経済行為としての移住だった。そもそも「植民地」という言葉から、まるで他国への侵略行為を連想する人もいるようだが、まったく違う。日本の研究者がこの件に関して、しっかりと区別してくれたことを嬉しく思った。

レジストロの歴史概要

神奈川大学日本常民文化研究所長、安室知(さすむろさとる)さん

 ここからは前述のオンライン開催された成果発表会の内容を紹介する。
 まず、日本常民文化研究所長、安室さんは、「この共同研究フォーラムはこの2年間の研究成果の発表の場。今まで対面だったがコロナ対策でオンラインに。むしろブラジルと結んで同時開催し、国際的に発信できるようになった」と肯定し、「今年、常民研は100周年を迎えた。次なる100年に向けて出発の企画でもある」と位置づけた。

福澤一興さん

 最初にレジストロ日伯文化協会副会長の福澤一興さんが「移住者の生活史」として入植の歴史の概要を語った。主要農作物の変遷、産業比率などを図表付きで説明した。
 1911年に東京シンジケートが聖州政府と結んだ植民契約から始まったレジストロ植民地は、一耕地25ヘクタール、耕地総数562。これを5部に分けて管理した。この1部から5部までの各集落の年代ごとの世代の変遷、営農作物の変化、自治体の費用を負担する「郷費」の変化など独自の視点から植民地の歴史を詳しく分析した。
 まとめとして《ブラジル日本移民植民地の中で最初に造成された植民地の一つで永住を目的とし、米作を主作として始まったが数年で行き詰まり、コーヒーを始めとしたさまざまな作物を取り入れつつ、ついに紅茶が導入され、植民の注目を浴びる主作物となる。その間、品質を初めとする諸問題を長年かけて解決し、生産者を組織化し、増産を図り、植民地発展につなげ、それを後継者が受け継いだ。植民地造成の目的は達成したと考える。目的を植民者自らが達成したことに意義があると考える》と結論づけた。

建築や家族史にみる移民の足跡

肱岡明美さん

 続いて、現地の肱岡明美さんが「レジストロ移民建築」を発表した。移民家屋における先住民の影響を調査したもの。ブラジルで最初に金採掘が行われた地域なので、キロンボーラ(逃亡奴隷の集落)が歴史的に散在している。
 バストスやトメ・アスー、フンシャルなど他の移住地の住宅との比較も行った。
 「調査によれば、それぞれの移住地にでは日本移民による広範な建築知識の存在が見られ、しかも現地事情に適応させる試み、改良も行われている」と柔軟性を強調し、「インディオやキロンボーラ住民にとっての住宅建築は住むという機能性以上に、アイデンティティを残す役割を担っていたように見える。この部分は、日本移民にはあまり見られない」と結論づけた。
 レジストロ日伯文化協会顧問の清水ルーベンス武さん(三世)は、「レジストロにおける清水家の歴史」を発表。清水家は北海道旭川出身で、祖父は29歳で3人の子どもら家族を連れて1925年、渡伯することを決心した。先に移住していた友人が予約していたロッテに入植した。
 ガリンポにも挑戦したが、成功しなかった。いろいろな作物を試したがうまくいかず、紅茶の生産でようやく軌道に乗り、1980年頃に最盛期を迎え輸出も行った。
 1990年頃には為替が大きく変わり、輸出に不向きになった。加えて当時の食生活、衣食住に関する具体的な習慣、慣行が詳しく報告された。
 「清水家は3人から始まり。から、96年をかけて220人余りに増えた。このようなすばらしいコミュニティを残してくれた先祖に心から感謝の意をのべたい」と締めくくった。

清水家の歴史を語る清水ルーベンス武さん

期待される史料館の再オープン

渋沢資料館の永井美穂さん

 渋沢史料館の永井美穂さんは「レジストロ日本移民史料館の可能性」について論じた。
 現在、同史料館は閉館中だが、将来的な可能性の道を探った。渋沢栄一は伯剌西爾拓殖株式会社の創立委員長として、レジストロ植民に深く関わった。日本移民史料館は2002年1月、KKKK(海興精米所跡)で開館した。2016年6月にSESCにするために閉館。17年11月、市と工事請負会社が契約、工事開始。だが場所に洪水の可能性があり、河川沿いの自然保存地区であることも重なり、18年2月に工事が中断した。
 2020年12月にレジストロ文協がPROAC助成金10万レアルを獲得。21年には市所有の建物で再開を決定。改装と展示制作は市が実施することになった。
 所蔵資料の多くが生活用品で、「農業が基幹産業だった割に、農業に関する所蔵資料が少ない」などと指摘した。大西ルシアさんが展示資料カードへの書き込みなどをしている。
 新しい史料館は、レジストロ市全体の博物館としての役割を意識し、さらに独自の資料を集めて史料館自体の価値を高めることで再建につながると期待している。12月開館を目指していたが難しい情勢。でも開館には近づいているという。

移民と切り離せない紅茶の歴史

泉水 英計(せんすいひでかず)教授

 最後に神奈川大学経営学部の泉水英計教授が「文献にあらわれたレジストロ植民地」を発表した。
 1930~90年頃まで紅茶が基幹産業だった。海外興業と緊密な関係をもって創立されたシャー・ツッピー製茶組合に焦点を当てて説明した。清水さんの祖父で、シャー・ツッピーの創立・解散時に指導的な立場にあった清水宗二郎日記が参照された。
 紅茶産業は民間主導、個人的な形で始まったが、海外興業が応援して拡大した。戦争によって英国紅茶が入手困難になり、レジストロ紅茶が拡大。戦時中に敵性団体として解散。戦後、コチア組合が進出、1954年にシャー・ツッピーはコチアに吸収合併された。
 宗二郎は1982年の日記に《ツッビーの商標インジヨの絵は山本(勝造)の考案にしてツッピー組合はつぶれても、レジストロに茶の生産がある限り永遠に残るものとなった》と記した。コチア産業組合はこの商標を、ブラジル国内向けの商品に使い続けた。
 だが1994年にコチア産業組合が解散し、レジストロの巨大な茶工場も精算された。
 「1985年に他界した清水宗二郎は予想しなかったでしょうが、現在、インディオの図柄の梱包に包まれて商店に並ぶお茶は、天谷工場で精製された茶葉です。確かにレジストロに茶生産がある限り、この図柄は残っています」と締めくくった。
 最後に総合討論となり、同大学国際日本学部の小熊誠教授の司会により、「他の民族系組合に比べた日系組合の特徴は?」など、いろいろな質問が寄せられた。
 「どうして常民研が伯剌西爾の移民の歴史を研究するのか?」との質問に、泉水教授は「常民研が始めたのは、日本や東アジアでやってきた研究を、それ以外の地域に広げようという考え方」「農具、民具、自宅の建築などの常民文化研究、アプローチは日本や東アジアからブラジルに広げられたと思う」と説明した。
 さらに「多民族社会のマイノリティーとしてすごしてきた日本移民だが、レジストロでは地主階級的な立場として社会の動きの中にいる。ブラジルに行く前におもっていた常民という概念と少し変わってきた部分がある。でもそれを考えること自体に意味がある」などのやり取りがあった。

異国で「日本文化の本質を見極める」研究を

総合討論の様子

 移民の特徴はエリートが少ないことだ。「常民」が庶民を意味するのであれば、まさに日系社会の生活実態を細かく見てもらうことで、移住して「国際化した常民」の姿が見えてくるのではないか。その過程で、日本文化のどんな部分が変容し、何が言葉を越えて残ったかをじっくりと研究して欲しいと感じる。
 他の文化に越境してなお、残る日本文化のエッセンスとは何か。どんな部分がどうして変容しやすいのか、それがどう現地で受け入れられ、変容してなお「日系文化」として定着しているのか。その文化の変容と無変容のメカニズムをぜひ解明して欲しい。
 日本の日本人には、おそらく「日本文化」というものが当たり前過ぎて、逆になんだか分からなくなっているのではないか。他の文化の中に差し込まれ、馴化される過程で、日本文化の本質が見えてこないだろうか。
 ブラジルという異国において、最初は一世が日本文化を持ち込み、二世、三世に受け継がれる中で、残念ながら言葉は淘汰されつつある。だが、精神的なモノはそれなりに残っている感じがする。これは、日本文化の精神がポルトガル語世界に乗り移ったモノであり、ポルトガル語のコロニア語などに散見される。
 民具などは物理的なモノという意味では限界があるが、精神的な影響にまで研究を深められるのなら、「日本文化の本質を見極める」という部分で成果が得られる気がする。
 「外から見た日本文化」は日本国内からは分からないし、日本語でも分からない。ぜひ、このような取り組みを深めて、さらに新しい視点から研究の学際を切り開いていって欲しいと期待する。(深)