繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(26)
さて、移民船最大のイベント赤道祭りは、この航海の圧巻。藤原さんが、航海中に32歳になったワイを竜神、18歳の美人・大村松子さんを乙姫に指名した。
YY(柳生義夫君)の仮装は奇抜で好評、大村氏はキュラソーで免税で買ったキャンテイー・ワインの樽を、がぶ飲み。話に聞いてた通り、赤道祭は盛り上がった。
フォーレンツオルレン家の末裔と名乗るドイツ女性を抱いたのも、この日の甲板の上。すごく魅力的な太腿の合間に透き通るような金色に光り輝く毛並が揺れ、いとも妙なる匂いの漂いを覚えてるけど、その後どうなったのか全然わからん。
気がついて目を覚ました時、ワイは一等船客の彼女の豪華なベッドの上やった。
「お陰で女になれました、ダンケ・シェーン」と満面の笑みを浮かべ嬉しそう。なんとかトロッケンというドイツのシャンペンを抜いて乾杯。
後で聞けば、このドイツ娘は、未だ十代で大学に入学したばかり。豊満な肢体は日本女性の20代よりも遥かにセクシー、西洋人は発育が早いのだ。
風の便りで、彼女はドイツでは新進の病理学者になってると聞いていた。
今から10年以上前になるが、ワイがカリフォルニアのバイオジェネックス社に勤務してた頃、日本から東海大学病理学教授の渡辺慶一先生が来社された。
先生の引用された文献にそれらしい名前が見つかり、先生にそれとなく尋ねた。彼女は、かつてのプロイセン帝国に君臨していた貴族の子孫でヨーロッパ病理学会の権威者という。ビンゴ!やっぱり、そやったんや。渡辺先生は「日本人の夫を持つ貴方の奥様が羨ましい」と、赤道祭での話をドイツ人を妻にしている渡辺教授に語ったようだ。
何度か結婚したがいずれもうまくいかず「ドイツの男は威張るばかりでヒュラクリッシュ! 船室で女にしてくれた日本人が忘れられない」と、赤道祭での話を口癖の様に云っていたとか。
赤道祭から20年ぐらい経ったある日、博多駅前のシテイホテルで既に高校生の娘のある松子さんに会う機会があり、「ハナさんは独身だったのですか・・」と悔やんでた。大学生になったその娘さんが、リオの絶景の地にある大村さんの経営する料亭「コトブキ」に手伝いに来てた頃に会った事があるが、母親似の奇麗な娘さんやった。
さて、ワイがブラジルに移住した時に話を戻すとしよう。サンパウロの三井物産の中にある東芝には、土光社長からの指令が先回りしていて、メデイトロニカという会社に連れて行ってくれたのは、外語を出てブラジルの田舎で語学研修を終えたばかりの竹内正義氏と世界最大の発電所の商談の為に長期滞在中の石坂信雄氏だった。竹内氏は、その後何年か経って東芝アルヘンチーナ社長として、アルゼンチンに府中工場製の電車を数多く売り込まれた。
メデイトロニカのニールセン社長が笑顔で何か云ったが、聴き取れなかった。
「総支配人として採用する、明日から出社せよ」と石坂さんが通訳してくれた。日本と違って決断は早い、もっとも既に根回しが出来ていたのかもしれないが。