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連載小説

ガウショ物語=(14)=底なし沼のバラ=<6>=懐かしさとは痛みのない痛さ

 が、次の瞬間、ゴボゴボという音を残して、沸き立つ泥の中に消えてしまった! 考えてもみな、お前さん。目の前で、投げ縄の綱の半分くらいの距離だ、すぐそこでそんな事が起きているのに、だれも手を貸して助けてやることが出来なかった……。 みんなの口から出た言葉は、「おお、イエス様!」だけだった。 沼はあらゆる隙間から泡を噴きだしていた… ...

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パナマを越えて=本間剛夫=57

 雑嚢はくたくたにくたびれていたが防水のために全く水分を吸わず、マッチはすぐに焔をだした。辺りが僅かに明るくなり、垂れ下がる無数の木の根の編目の向こうに、いくぶん下り坂に傾斜して人間一人が這い入るには、さほど困難ではなさそうな孔が黒く口をあけているのが見えた。 しかし、その中にも細い毛根を生やした熔樹の根が鍾乳洞の石筍のように垂 ...

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ガウショ物語=(13)=底なし沼のバラ=<5>=「あの花は?」「娘のだ!」

 その時、旅慣れて、広い世間を見た来たことを自慢げに話す一人のガウショが、わしの上着の袖を引っぱって、耳元で囁いた。 「シッコンは娘を追い回していた。……やつは家にいなかったし、俺たちとも来ていない。娘もいない……。なあ、仲間、どう思うかね?……」 「フン!」わしはそれしか答えなかったが、男の言葉が耳の底にこびりついていた。 だ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=56

 「ずいぶん、のんびりした偵察だったなあ、今日は…」という声がした。私は、そののんびりさがくせものだと思った。アメリカの意図が匿されているのだ。最後の攻撃を加えるための予備行動と思われないことはないからだ。執拗な旋回で丹念に航空写真を撮っていることも考えられる。その間に逃亡中の兵と交信したかも知れない。 定刻より一時間近くも遅れ ...

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ガウショ物語=(12)=底なし沼のバラ=<4>=馬ごと深みにはまり込む

沼にはまり込んだ人(イメージ図)

 沼に投げ出された娘は、たちまち、馬の脚に掻きまわされてぶくぶく泡立つ黒い泥沼に呑み込まれてしまった……。そして、その跡を標すみたいに、髪に挿されていた真赤なバラが浮かんでいた。 同じように拍車と鞭を当てられながら疾駆して来たシッコンの馬も、その勢いで、前の馬の一尋(ひろ)半ばかりのところに嵌(はま)り込んでしまった。体はすっぽ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=55

 粥にすれば一週間はもつ。その問題よりは、大本営がこの島を無視していなかったことが分っただけでも将兵たちを元気づけることにはなろう。         3 翌日、命令受領のあと、私は再び樹林の下に立った。蔓草のカーテンのどこにも、人がもぐり込める間隙はなかった。蔓は上から下がっている枝根にからんで這い上がり、天井に達して互いからみ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=54

「兵長どの……」 私が黙ってしまったのに不審がった大島が、私を覗くようにした。私は二人をからかいたくなった。「そりゃ、シャンにきまってるさ。テキは航空将校だぜ。二十二、三かな。髪は明るい亜麻色で、瞳は珊瑚礁の、あの薄い水色だよ。鼻筋が通って、唇は適当にふくらんで、吸いつきたいほど、笑うとえくぼがぽっくり……というのかな。俺は十年 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=53

 その時、ふと、かすかな水の流れのような音を聞いた。それは日本の秋の草むらに鳴く鈴虫のようなチョロチョロという音であった。じっと耳をすました。どうやらそれは蔓のカーテンの奥から聞こえてくる。カーテンの前まで戻り、耳を押しつけるようにした。やはり水の音はその中の地底から湧いていた。私は再び横になり、耳を地面に当てた。音はまさに渓流 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=52

 あいつは二重国籍の西洋かぶれだから、兵隊にとられていい気味だ。土性骨を叩き直せばいい。そんな、陰口が叩かれているのを知っていた。そういう偏狭な日本の社会から脱け出したかった。日本人を憎んだ。私が日本人であるよりもブラジル人でありたいと考えるようになったのは、日本が、私に仕向け悪意の結果である。 どうしても二人を救わなければなら ...

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ガウショ物語=(10)=底なし沼のバラ=<2>=類稀な美しい娘と粗野な大男

ガウーショ山脈(Serra Gaucha)の中の村の様子(Foto Eduardo Seidl/Palacio Piratini)

 男は働き者で、何でもよく知っていた。家を建てるための場所選びから、ヤシの葉の屋根葺き、材木作り、柵囲い、耕作、どれも自分でやってのけた。梁の角材を削ることから、四分の一アルケールの小麦の種撒き、さらに、牛を去勢したり、荒馬を馴らしたりすることもできた。 マリア・アルチナ――男の娘だ――が十六歳になったころ、農園はまるで天国のよ ...

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