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連載小説

パナマを越えて=本間剛夫=30

 確かに衛生兵という職務は患者に安心感を与え、慰安を引き出すものだ。兵は勿論、将校さえも衛生兵の言動が病状を左右する例は枚挙にいとまがない。 私が患者に近ずくと、今まで眼を閉じ、身じろぎもしなかった兵たちの間から、かすかなサワサワという動きが聞こえ始める。そして、回診を終えた私の背後から重い淀みが襲いかかるのを感じる。また彼らは ...

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パナマを越えて=本間剛夫=29

 会場で起こった爆音は低空で豪の上を舞っているらしく、いつになく執拗に患者の横たわる洞窟の空気を震わせた。何かが、起こりそうだ――不安が、朝の回診を始めたばかりの衛生兵たちを襲った。 「編隊でありますか」 外光がほのかに届く病床に横になっている上等兵が怯(おび)えた眼を私に向けた。我々の不安はそのまま患者たちに伝播するらしく、回 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=28

流離 = 第一部       1  今日も回診の時刻になると、例の如く敵の偵察機がやってきた。いつも午前と午後、殆ど同時刻に現れるので我々は定期便と呼んでいた。敵は抵抗力を失っていると甘く見ているからに違いなかった。 ブリキの薄金を叩くようなキンキンと頭の芯に響く偵察機が、周囲十六キロしかない孤島の上空を何回か低空で旋回する。数 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=27

 コーチはニヤリと頬をゆがめた。それは今まで一度も見せたことがなかった表情だった。無邪気な人なつこい笑顔だった。 「君は中野学校を知っているかね。知らないだろうね。軍の謀略学校だ。わしはそこで教育を受けた二重国籍の日本軍人だよ。わかるかな。軍人で二重国籍が許されるわけはない。だが、それだからこそ、わしは日本のために好都合に働れた ...

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パナマを越えて=本間剛夫=26

「その頃、アマゾン調査団という日本人たちがボリヴィア国境までやって来たんだ。その団長というのが父の親戚だった。よく調べてくれたもんだよ。わしは、その団長に連れられて日本へ来た。その団長をわしは父と呼ぶようになって、日本の学校を出た。……まあそんなところだよ……」 私は東京練馬にある、日本力行会の図書室で「秘露棉花移民史」でそのこ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=25

 コーチは突然、暫くこの町に滞在すると意外なことをいった。何故? と質ねたが、コーチは急に用事ができたのだ、という。得体の知れないコーチのことなので深くは尋ねなかったが、コーチの方から説明した。「ここは、国際スパイの拠点だ。世界の女が集められているんだ。敵国の情報を掴むには、その国内よりも、隣国での方が正確なんだ。わしは仕事上、 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=24

 数十基も並んだ石油タンクの上部に、大きな蝙蝠が描かれ、その下にやはり活字体の太文字で社名があった。タンクの正面から見上げると、その米国系石油会社の名称の大きな文字は、エンセナーダの市民を威嚇しているようだ。手入れの行き届いた敷地一杯に広がる芝生に、テニスコートとプールが見える。土と砂のデコボコ道路と鉄条網が隔てる二つの世界の格 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=23

 「私は中南米の人間に、もっと魚を食べさせたい。特に海のないボリヴィアのチチカカ湖を大きな漁場にして、アンデス人に食わせる。チチカカを鱒の大養殖場にする。君、ボリヴィア人の平均年齢は三十六才だ。動物蛋白がとれないからだよ。アンデスのチンチラは世界一の防寒服になるが、その肉は知れたもんだ。いくら毛質がいいからといって、毛は食べられ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=22

 もう、そろそろ夕食の時間だ。時計を見て、ゆっくり食堂へ向かった。食堂の窓が明るく、薄いカーテンを通して二人の影が見えた。 コーチは私の素姓も胴巻きのことも知っているらしい。ボリヴィア人の商人、日本漁船の船長である彼が自分の船を離れて、この貨物船に乗っているのだから、日本人に違いない。 それなら、なぜボリヴィア人だというのか。疑 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=21

        7  日光丸は給油を終えて第一閘門に入った。うしろの閘門が閉じると、両壁に貼りついている無数の鉄パイプから注ぎ込まれる水とガツン湖から引かれた噴水式ポンプの水が噴き出て、見る間に第一と第二の閘門の水面が一致する。すると第二閘門と次の閘門の扉が開いて日光丸はその中に入る。 二光丸が進むのは、両岸を進む小型電車のよう ...

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