バナナ王山田さんに栄冠=盛和塾・全国大会で最優秀賞(下)=バナナ王へ20年の格闘=経営とは何か、求め=山田さん「これからも挑戦」

10月8日(金)

 八四年に山田勇次さん(57)は、灌漑なくして芽も出ない乾燥地、ミナス州ジャナウーバ市へ移転した。あえて莫大な費用のかかる灌漑設備を作り、安いバナナを栽培したいと考えた。「周りから『あのジャポネースは何を考えているんだ』と陰口を叩かれた」という。
 最初の五年間は経営が不安定だった。大量に植えたナニッカ種から突然、病害が大発生し「愕然としました」という。「死屍累々」の農園で、わずかに生き残ったのはプラッタ種だった。それを中心に栽培をやり直し、現在のようになった。
 横暴な中間搾取の業者が多く、それを排除するために直売卸し店を作り始めた。「いろいろな嫌がらせも受けました」。でも、山田さんは挫けなかった。
 傍からは順風満帆の経営に見えたが、内心は不安で一杯だった。「子どもの頃から気の弱い性格はそのまま。政治の不安定さとか、三百人にも膨れ上がった従業員とか、よい経営とは何なのか、そんなことを悩んで悶々とする毎日でした」と当時を振り返る。
 そんな九六年、サンパウロ市に盛和塾があると聞き、バスで十八時間かけて話しを聞きに行った。「最初の印象は良くなかった。だって、ほとんどの塾生は背広にネクタイ。私のような田舎者には、とんでもない場違いな感じがした。帰りのバスの中で、もう戻ることはないだろうなと思ったが、買って帰った塾長の本を読み、テープを聞いて、十七歳の時以来の感動を覚えました」という。
 山田さんの成功に触発されて、多くの農業者が同じ方法に挑んだ結果、八四年当時は四万だった人口が七万人に膨れ上がり、バナナの一大生産地になった。その功績を認められ、名誉市民賞を授けられた。
 九七年の両陛下ご来伯時、ベロ・オリゾンテで山田さんは母親と二人で接見の栄誉を浴した。「皇后さまは母に長いこと話をされ、天皇陛下は私の作ったバナナを手にとり、『大変だったでしょう』とお声をかけてくれました」と喜ぶ。「母も『夢のようだ』と何回も言ってました」。
 昨年、盛和塾ブラジル十周年を記念して稲盛塾長が来伯し、山田さんは勉強会で自らの体験を話した。それが認められ、塾長から「ぜひ全国大会に」と薦められた。ところが、山田さんは直前まで「僕は田舎者で勉強もしてない。文字は読めるけど、書いたことないし」と断っていた。回りから、強く説得され出場を決意した。
 当日の発表は約三十分。その様子を会場で見ていた谷広海元代表世話人は、「みんか感激して聞いてくれ、涙を流している人までいた」と説明する。「審査員七人全員が二重マルで、大会始って以来とか」。
 山田さんは「日本の人のように上手にはできなかった。だって、僕は一日中ブラジル語を喋っているから、その差はすごくある」と思った。
 稲盛塾長は同日夕方、山田さんを京セラ本社へ招待し、料亭で特別な晩餐をふるまった。「最優秀賞をもらった時はビックリしました。三十四年ぶりに日本の土を踏んだが、とてもいい経験になった」。
 九月二十四日(金)には、サンパウロ市の塾事務所でも祝賀会が開催された。二十数人が駆けつけ、山田さんの快挙を祝った。当日撮影されたDVDが上映され、それを見た石田光正事務局長は「何度話を聞いても感動しますよね。彼の真摯な経営姿勢には」との感想を語った。
 山田さんは「これからも挑戦し続けます。熱帯フルーツの種類を増やし、ジュース工場を立上げ、直売卸し展を全国展開したいんです。そして、最大の夢は、稲盛哲学を全従業員と分かち合い、地域住民のためにも堅実な経営を続けていくことです」と熱っぽく語った。

■バナナ王山田さんに栄冠=盛和塾・全国大会で最優秀賞(上)=「学歴ないが稲盛哲学で」