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バナナ王山田さんに栄冠=盛和塾・全国大会で最優秀賞(上)=「学歴ないが稲盛哲学で」

10月7日(木)

 バナナ王の夢の一つが実現――。国内向けではブラジル一の生産量を誇るバナナ農場をミナス州で経営する戦後移民、山田勇次さん(57、北海道出身)は九月一、二日に京都で開催された盛和塾の第十二回全国大会で体験発表し、見事、最優秀賞に輝いた。中小零細企業経営者の勉強会である同塾三千五百人余の頂点に立った山田さんに、稲盛和夫塾長も講評で賛辞を惜しまず、特別な晩餐まで催した。十三歳で移住した山田さんは、「僕は田舎に住んでいるし、小学校しか出ておらず、何の勉強もしていないが、私なりに実践してきた稲盛哲学を日本の塾生に伝えることができれば」と語った。

 3千5百人の頂点に

 昨年十周年を迎えたばかりの盛和塾ブラジルから、日本全国に三千五百六十人いる塾生の頂点を極める企業家が生まれた。盛和塾とは、京セラやKDDI創立者である稲盛和夫氏が一九八二年にボランティアで始めた経営塾だ。
 ブラジルの代表世話人、板垣勝秀さんは「熱帯果実という異色のジャンルで、稲盛哲学を活かした山田さんの姿勢が評価されたと思います。我々の大きな励みになると同時に、盛和塾全体の歴史に新しいページを加えた」と喜ぶ。
 九月一、二日に京都で開催された第十二回全国大会には、日本全国にある五十七塾から一千七百人余りが参集した。毎年、各塾の推薦者から八人が選ばれて全国大会で発表、ただ一人最優秀賞に選ばれる。ブラジルからは三人目の発表で、海外初の快挙となった。
  
 広大な夢追いかけて

 サンパウロ市から北北東に約千二百キロ、バイーア州にほどちかいミナス州ジャナウーバ市に山田さんの経営するブラジニッカ・フルッタス・トロピカイス社はある。
 十カ所あるバナナ園の総面積は八百五十ヘクタール。年産二万七千トンで、売上は約十五億円。従業員は八百六十人を数える。国内向けバナナ生産者としては、すでに全伯一だ。さらに千二百ヘクタール分を増やすバナナ園プロジェクトも進行中だ。
 同社はサンパウロ市のセアザ、オザスコ、リオ、ベロ・オリゾンテ、ブラジリアなど七カ所に直売卸し店を経営し、中間マージンを省いた低価格で高品質なバナナを提供することで差別化を図っている。
 同社の所有する総面積は一万二千ヘクタールで、リモン、カジュー、マラクジャの栽培も手がけ、牛三千頭、ヤギと羊合わせて一千頭も飼育している。
 山田さんは一九四七年、帯広の農家に十一人兄弟の十番目として生まれた。「甘えん坊で弱虫だったが、夢を見るのが好きだった」と回想する。四十四年前、家族と共に十三歳で渡伯し、レジストロに入植した。
 二年後、父が突然他界した。農場経営を巡って、年の離れた兄と意見が対立する毎日だった。「学校も出ていないお前に、何が分かるか」と事あるごとに言われ、悔し涙を飲んだ。せめてブラジルで、と小学校にも入学したが、結局は先生を殴って辞めた。
 十七歳の時、ナポレオン・ヒルの『巨富を築く13の方法』を読み、「体の中を貫く、戦慄を覚えた」という。二十歳で独立し、リベイラ川沿いにバナナを栽培した。何度も壊滅的な病水害や価格の乱高下に見舞われたが、いち早くマラクジャ栽培を手がけ、輸出をして資金を手にした。
 三十代半ば、次なる新天地を探した。「子どもの頃から夢見た、遠くまでまっ平らな土地を探して、あちこちを探しました」。
 そんな時、ジャナウーバ市の農業試験場で見た、灌漑水を利用して見事に育ったバナナ三十本に、目が釘付けになった。「とても美しいバナナでした」。この出会いが山田さんの人生を大きく変えた。そして「レジストロの土地を半値で処分し、自らの退路を絶った」。      つづく

 

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