ニッケイ新聞 2011年5月28日付け
東京・品川発の高速夜行バス「ビーム1号」は岩手県の宮古駅前に朝7時に到着、すぐに田の浜行きの岩手県北バスに乗り換えた。JR山田線の海岸部が津波被害で復旧のめどが立っておらず、唯一の公共交通機関であるバスには高校生がたくさん乗り込んできた。
宮古駅前は一見、何事もなかったかのように見えたが、発車して1分も立たないうちに「解体可」とペンキで大書きされた商店が目抜き通り沿いに現われ、後ろの座席の女子高生らは「この辺の津波は最悪だった」などと話している。
そのすぐ先、港に程近い宮古市役所は1階部分の割れた板ガラスにベニヤ板がはってある。ガラス面の汚れから察するに4メートル近くまで浸水した。2メートルなら家屋全壊とも聞いたので、さきほどの通りの多くは大損害を受けたはずだ。
宮古大橋を越え、JR津軽石駅のすぐ先で電車が津波の力で脱線して斜めになったまま止まっていた。この道は海岸沿いをゆくのでほとんどが被災地だ。鉄骨だけのガソリンスタンド、2階部分の壁まできれいに持っていかれた温泉、お化け屋敷のようになったドラッグストアーの中を中高校生が自転車をこいでいく。
あの先進国の日本ですら2カ月たってもこの状態である事実が、被災規模の巨大さを暗示している。しかし、この辺は「もっとも酷い被災地域」ではない。ならば山田町はどんな状態なのか。
峠を越えて約1時間後、山田町にバスが入った瞬間、息を呑んだ。あたり一面が焼け野原…、まるで空襲の後のようだ。
待ち合わせした中央町バス停には松本トミさん(81、盛岡出身)が日傘をもって立っていた。その場面だけを写真で切り取れば何気ない日常に見えなくもない。でもその背景はあまりにも無残な状態であり、そのギャップが激しい。
松本さんは岩手県人会の相談役、藤村光夫さんの実姉だ。訪伯歴はなんと6回を数える。地元小中学校で計40年間も教鞭を奮っていた関係で、教え子が市役所はもちろんあちこちにいる。
「ここが町一番の繁華街だったんですよ」と説明する。廃墟となった岩手銀行と交番の間にあるバス停には、いまはなんの表示もない。
廃墟と瓦礫の山を越えると一面の焼け野原が広がった。JR陸中山田駅付近の線路は無残にもグニャっと曲がっており、火事のすさまじさを物語っている。「ありえない」。記者の頭にはその言葉以外に思い浮かばなかった。(つづく)
写真=かつての山田町の中心部に立つ松本トミさん