4月23日(水)
日本語学校は、日本人会が運営しているため、教育者会長の采配に今から大きな期待がかけられている。
さらに、初期時代の移住者はかけがえのない先輩たちであり、敬老介護と福祉の充実も急務。かといって、文化やスポーツなどを軽視することはしない、とも断言している。
玄海灘に面した北九州に生まれた栄田さんは、中学三年生の時に慢性骨髄白血病の宣告を受けた。これが「生涯を全て他人のために捧げる人生を歩むきっかけとなった」と述懐している。
一九六五年、日本三育学院を卒業すると同時に、伝道師としてブラジルに渡った。サンパウロでも神学校に入ったが、その学校の大先輩にジャクト農機社や西村農工学校の創立者でもある西村俊治さんがいる。
その学校で生涯の伴侶となる日本人女性と出合い、〃生涯を他人のために捧げる道〃が確立された。サンパウロの神学校で学んでいた時に、パラグァイのシュバイツアーとして尊敬を集めていた野崎信雄医師に会い、同医師の高邁な姿勢に感動、六九年にパラグァイの首都アスンシオンに移動した。『パンより教育だ』という信念に基づいて、三育学園を創設して子弟教育の道を歩みはじめた。そして、縁あってイグアスー移住地を生涯の居住地と定め、同地に移り、三育学園カデップ校を開校して現在に至っている。
縁が縁を呼び、伝道師であり教育者という、移住者の中で希有な経歴を持つ人物が移住地の日系コロニアを牽引することになった。
イグアスー移住地の中心部は、首都アスンシオンから東に二百八十六キロ、ブラジルとの国境から西に四十一キロの地点にあり、人口が約一万二千人の小さな町だ。その中で日系人口は約二百世帯九百人程度(イグアスー日本人会・二〇〇二年概況)に過ぎないが、パラグァイの〃不耕起栽培〃発祥地として、また、大豆などの輸出農産品の主要生産地として知られている。
その中核的役割を日本からの移住者が担ってきていることも、輝かしい事実として内外に認知されている。その移住地で、私欲を超越し、実践に裏付けされた教育理念に精通した新しい日本人リーダーの活躍が注目される。
農業で躍進を続ける移住地は、農業の外でも人を得た。「朝起きるのが楽しい毎日だ」と気力満々の栄田会長である。