2007年5月17日付け
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笠戸丸から五年後の一九一三年、イグアッペ植民地(桂、レジストロ、セッテ・バラス、キロンボ・ジュキアの総称)に入植した日本移民は土地を購入、ブラジルの大地に確固たる意思を持って根を生やした。
そのことを証明するかのように、レジストロ市営墓地には、日本語で彫られた立派な墓が数多くある。そのなかに、赤茶色の御影石に「岡田芳太郎」と書かれた墓がある。
三三年、レジストロで客死した〃世界徒歩旅行者〃のものだ。ただ一晩泊まっただけの同胞を戦前の地元日系社会は手厚く葬った。そして、七十年以上経った現在でも墓を守る日系家族がいる。
「この遺品をご家族にお返ししたい」――。
エミア・コマツ・レイテ・デ・ソウザさん(81)は、七十年以上守り続けてきた黒光りした岡田の杖を愛でるように撫でた。
酷暑の二月、レジストロ。町の名物である灯ろう流しが半世紀の歴史を持つリベイラ河畔はかつて、セントロとして栄えた。
日本移民が上陸した港からほど近くに、移民たちが旅の疲れを癒した小松旅館(Hotel Riveira)があった。現在、その場所にエミアさん一家は住んでいる。
旅館の経営者だった小松敬一郎氏(長野県出身、五六年死去)の長女のエミアさんは、八〇年代末まで同じ場所でペンソンを経営していた。
エミアさんの長女、エリザベッチさん(60)は、「岡田さんのことについて、誰かが訪ねてくるのをずっと待っていました」と優しい笑みを浮かべながら、取り出してきた箱からセピア色の写真、各国硬貨、絵葉書などを広げた。
そのなかにあった一枚の名刺には、「世界徒歩旅行家 岡田芳太郎」と書かれている。
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この取材のきっかけは、サンパウロ人文科学研究所(本山省三理事長)が今年一月に立ち上げたHP(http://www.100nen.com.br/ja/jinmonken/)の一コーナー「ブラジル移民史こぼれ話」に鈴木正威同研究所理事が寄稿した「レジストロに客死した世界旅行家―岡田芳太郎」を見たことからだった。
鈴木理事は、サンパウロ総合大学日本文化研究所の初代所長だった鈴木悌一の評伝を書く目的で、悌一がポルト・アレグレの神学校でポルトガル語を学んでいたころの青春日誌「山庵実録」を読み、ある記述に目が止まったという。
「一九三二年七月二十八日 夜、世界徒歩旅行家岡田芳太郎を訪問する。汚い陰惨なホテルの一室に暗い電灯を掲げて、老いたる旅行家はマテ茶をすひながら語る。
とにかく彼の忍従には一目おく。三十一年****年来を、足にまかして歩いて、彼は果たして何の感慨をや。
ああ彼に吾人らの教養と活眼さへあるならば、もっと飄々のみち、絢爛たる旅行の思ひ出にふけり得たろうが」(一部略)
鈴木理事は悌一の青年期特有の客気に満ちた精神状態を指摘しながら、驚きをもって続ける。
「なんとかれは二〇世紀の始めから徒歩旅行をしている勘定になる」――。
▽ ▽ ▼ ブラジル日本移民史料館に七七年、レジストロ文化体育協会から寄贈された岡田の日記が八冊ある。
アラスカ、カナダなどの北米、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国を始め、中南米各国を歩いた岡田は、ブラジルにはポルトガルのリスボンから、船に乗っている。
「BRAZILの首府リオデハ子には上陸したのが慥か千九百六年明治三十九年の九月であった。人口八十万の首府に日本人は居ない九月であったが却***」(日記は原文ママ、****は解読不能の文字数)
海外に旅行すること自体が一般的ではなかった時代に三十年もの長きにわたり世界を歩いた明治人、岡田芳太郎は、笠戸丸の二年前にブラジルに入国していた。(つづく)