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〃琉僑〃=日本との新しい関わり方=世界ウチナーンチュ大会が目指すもの《第4回》=南風原町=「移民は郷土の誇り」=続々と町史に編纂

2006年10月6日付け

 【沖縄発】「ブラジルを第二の沖縄に」(移民への喜屋武学生会からの寄せ書き=一九五七年=)。壁には「南風原の移民の先駆者達」という写真パネルが一四人分掲げられ、その大半が笠戸丸移民。まるでサンパウロの移民史料館にいるかと一瞬、とまどった。
 ここは南風原文化センター。日本ではJICA横浜にある移民資料館以外で、移民に関する常設展示は珍しい。しかも、市町村が運営する施設となるとほぼ見あたらないのが現状だ。
 那覇の東隣にある田園都市、南風原町。太平洋戦争の沖縄戦では、南部への主要避難ルートであったことから〃死の十字路〃とも言われ、なんと村民の四二%が犠牲となって死んだ激戦地だ。
 八九年に完成した南風原文化センターの展示の四大テーマのうち、最大の面積を使う「戦争」に続いて、「移民」が大きく取り上げられ、一室を使い、写真パネルや手紙、パスポートの実物などが置かれている。
 「この展示が、南米の人たちの激励になっていると聞きました。あんなに立派に展示してくれてあるんだから、恥ずかしいことはできない、と」。文化センター館長の大城和喜さん(57)は胸を張る。
 この七月末には『南風原町史 第八巻 移民・出稼ぎ編 ふるさと離れて』が発刊されたばかり。城間俊安町長の「発刊のあいさつ」によれば、一八九九年の沖縄初移民から戦前戦後合わせて一八〇〇人もが海を渡っており、移民との縁は深い。
 この町史は四〇六頁の分厚いもので、特徴としては移住先の言葉でも併記されていることだ。ブラジル移民史の部分なら、日本語の後にポ語訳も書かれている。
 町史編集委員でもある館長の大城さんは「現地の言葉まで入れて町史を編纂したのは、ここだけでしょう」と強調する。
 なぜポ語、英語、スペイン語などの訳が添えられているのか─と尋ねると、「現地からの要望が強かったので」と大城さん。「形式だけでなく内容のあるものを。ぜひ子孫にも読ませたい」との声に応えた。ブラジルで発刊される記念誌ですらポ語を併記していないもの多い。ここまでやる自治体は、ちょっと他には見あたらないだろう。
 大城さんは訪伯四回を数える。この八月二十三日から九月七日までかけてブラジル、アルゼンチンに編纂協力のお礼を言いに回ってきたばかり。「一世の長老たちにできたばかりの本を置いてきました。亡くなった方も五人おられ、仏壇に供えてきました」。
 驚いたことに、沖縄では町史に「移民・出稼ぎ編」を入れている自治体はかなり多い。同文化センターが把握しているだけで、金武町、国頭村、大里村、玉城村、佐敷町、与那原村、北中城村、北谷町と八町村あり、今後、糸満市、名護市なども予定しているという。
 町史編纂室の古賀徳子さん(35)は本土出身だが、沖縄に魅せられて移住してきた一人。「たくさんの人の話を聞いたが、紙面の都合で全部載せられなかったのが残念です」という。取材をしている間にも、ブラジルに親戚のいる町民が来て話し込んでいく。
 大城さんは「沖縄は戦後、ゼロから出発した。その時にもたくさんの恩を移民から受けた。それを忘れないよう展示にしたり、本にしたりした」と説明する。
 「移住地でも一世が減り、三世、四世の時代になり、向こう(移住先)も意識が変わってきた。親戚が誰だか分からなくなり、関係が薄くなり始めている」と危機感を抱く。
 移住者からの強い要望を受け、八九年から町は独自の海外移住者子弟研修制度を行ってきた。昨年まで続けたが町財政が悪化し、今年は「休止」となった。
 大城さんは「こちら側でも移民を知る人が減っている。親戚すらいない人には、まったくの外人も同様。なんらかの交流を盛り上げることが必要だ」と力説する。「こぶしも振り上げず、はちまきも絞めず、無理をせず続けていきたい」。
 この文化センターには町内の中学生が総合学習の時間に勉強にくる。移民史は教科書にすら載っていないのが現状なのに、ここまで取り組む自治体がある。
 本土では考えられないほど、移民史と町史が密接に関連している。世界ウチナーンチュ大会の背景には、このような緊密さがある。
(つづく、深沢正雪記者)

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