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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2013年12月6日

 満州事変の直前、日本力行会の永田稠会長は、小磯國昭陸軍次官と永田鉄山軍務局長に呼ばれ、「満州に農業移住させることは可能か」と訊かれた。稠は《可能である。だが剣で取ったものは剣で取り返されますから鍬で開かねばなりません》(永田泉著『素晴らしい満州日本人開拓団』、2010年、19頁)と答えた(詳細はレジストロ連載85回)▼当時、海外移住送り出し経験を持つ者はないに等しい状態であり、ブラジル人材は貴重だった。ドイツ、スイスなどに駐在した国際派英才の永田軍務局長は武装移民に反対していたので、梅谷光貞を関東軍移民部長に送り込んだ▼永田稠は33年に武装移民を現地調査した報告書を関東軍に提出するが《今まで移住事業の実務をやったことのない拓務省管理局に担当させたのがそもそもの間違いである》と強い筆致で批判した上で《人類の移住史上いまだ一度も行われたことのない暴挙だ》とこき下ろした。当時、関東軍の方針や拓務省を批判するには相当な勇気が必要だったに違いない▼梅谷は満州での激務がたたって36年に肝臓病で逝去する。永田稠が38年に満州に力行村を建設したのは、志半ばで病没した同志梅谷への〃弔い合戦〃の意味合いがあったのではないか。永田稠が満州移民に参画したのは事実だが、国際協調的な移住という楔を、満州に打ち込もうと孤軍奮闘したように見える。当時の関東軍に対して言うべきことを主張して憚らない姿は立派だ▼日本近代史の重要な一部として位置づけられるべき逸話といえる。もし満州移民への参画が原因で彼らが移住史から拭い去られたのであれば、解せない気がする。(敬称略、深)

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