ホーム | コラム | 特別寄稿 | 明治維新と日本人移民=(独)国際協力機構理事長 北岡伸一=(上)

明治維新と日本人移民=(独)国際協力機構理事長 北岡伸一=(上)

第59回海外日系人大会で記念講演する北岡理事長

第59回海外日系人大会で記念講演する北岡理事長

 第59回海外日系人大会が6月6日にハワイのホノルルで開催され、北岡伸一(独)国際協力機構理事長が記念講演を行なった。JICAの許可をえて、その内容をここに転載する(編集部)。


 まず初めに、第59回、海外日系人大会の開催をこころよりお喜び申し上げます。
 150年前、日本人の集団移住最初の地としてこられたここハワイに、世界15か国から300名近い方々がお集まりになられたこと、大変うれしく思っております。

(1)二宮さん、フジタさんとの出会い

 私の在外日系人の方との出会いは、40数年前、1973年にさかのぼります。私は東大の大学院にいたのですが、ある先生に呼ばれて、ブラジルから二人の留学生がやってくるので、しっかりつきあってほしいと言われました。
 彼らは、ブラジル政府が日本専門家を養成しようと考えて派遣した若者でした。
 一人は外交官の藤田さん(ススム・レオナルド・フジタさん)、もう一人は学者の卵で二宮正人さんでした。私はフジタさんの日本語チューターをつとめました。
 ブラジルでは外交官の社会的地位がとても高いのです。それまで、お医者さんなどは多かったのですが、外交官にほとんどなれなかったのです。そこを抜群の成績で突破してこられたのが藤田さんでした。その後、昇進してインドネシアと韓国の大使を務められましたが、数年前に不幸にして亡くなられました。
 もう一人が二宮さんです。東大の大学院の博士論文というのは、たぶん、当時は世界一難しかったのです。というのも、日本法の基礎になったドイツ、フランス、英米の法律をきちんと勉強して、それから日本の法律を勉強してオリジナリティを出さなくてはならない。それまで韓国、台湾など、漢字圏で博士論文を書いた人はいましたが、それ以外にはいなかった。二宮さんはその第一号、大秀才が血のにじむような努力をされてできたことです。
 それから、単にサンパウロ大学教授、弁護士であるだけでなく、日本とブラジルとの間の問題で、二宮さんに世話にならなかった人はないと言ってよいほど、活躍してこられた。
 まことに立派です。しかし、あとに続く人がもっとたくさん出てほしいと思っています。もっとたくさん出てもらえるように我々も努力したいと考えています。

(2)清沢のこと

 もう1つ、在外邦人との関わりは、1987年に清沢洌という人の伝記を書いたことです。清沢という人は、戦前の外交評論家の中で、最も優れた人で、鋭く、リアルな言論で昭和期の日本の外交を批判し続けた人です。
 清沢は1905年に16歳でアメリカに渡っています。彼は家が貧しくて進学できず、近所のキリスト教の小さな塾で学びました。そこでキリスト教の強い影響を受け、アメリカに渡ってもっと信仰の道を極めたい、またもっと勉強したい、そういうわけで1905年にシアトルに行きました。
 清沢がアメリカに渡ったのは、ちょうど、アメリカ西海岸で日本人移民排斥運動が高まっていたころです。清沢も大変な苦労をしながら、学校へ行ったのですが、シアトルの邦字紙で働くようになり、そこで文筆を認められ、評判になり、やがて多くの日本の読者のために書きたいと考えて、日本に帰ります。1918年のことです。
 その後、清沢は新聞記者となり、評論家となり、朝鮮や満州にも行くようになりました。そして、朝鮮や満州における日本人の活動の基礎があまり盤石ではないと気づきます。アメリカでは日本人が日本政府からの支援もなしによくやっています。定着して、活動している。それに比べ、朝鮮や満州の日本人は、日本政府の支持なしには危ういと考えます。
 こういう視点から、清沢は1930年代の日本の大陸膨張を批判し続けたのです。その原点は、政府に頼ることなく、自らの力で道を切り開いていった移民の姿でした。
 なお、私はこうした研究から、邦字紙の重要性を痛感するようになりました。これまで日本語の新聞の刊行を続けてこられた方々に、深い敬意を表したいと思います。

(3)明治維新の位置づけと日本人移民

 さて、本年2018年は明治150周年。そして、1868年(明治元年)、サイオト号で153人の日本人が初めて、ここハワイに集団移住した年からも150周年となります。
 本大会の総合テーマも「世界の日系レガシーを未来の礎に―ハワイ元年者150周年を祝って―」ですので、初めて移住された地であるハワイで大いに祝いたいと思うところです。
 明治という時代が終わった直後、多くの人が明治とはどういう時代だったかを論じました。その中で、後の総理大臣となる26歳の石橋湛山は、「明治の最大の事業は、日清、日露といった戦争の勝利や植民地の拡大ではなく、政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックの改革を行ったことにある」と述べています。私も強く共感するところです。
 偉大だったのは戦争での勝利ではなく、維新からわずか30年余りで勝利できるような国力を蓄えたことです。
 明治政府は1871年、王政復古からわずか3年で討幕の主力であった薩摩長州を含むすべての藩を廃止し、その後、武士そのものも廃止します。1885年44歳の伊藤博文がわが国の初代総理大臣となります。足軽出身であった伊藤博文は江戸時代には政治について発言さえ許されない身分でした。
 つまり、維新から内閣制度の創設に至る変革は、積極的に国を開き、西洋諸国と対峙するために、国民すべてのエネルギーを動員するべく、既得権益を持つ特権層を打破した民主化革命であり、人材登用革命であったと言えます。
 経済、社会等の分野での改革も著しいものがありました。職業選択が自由とされ、貿易も飛躍的な自由化で拡大しました。身分制度を超えた義務教育制度も導入されました。
 明治の偉大さは、開国と民主的な変革によって、国民の自由なエネルギーの発揮を可能ならしめたことにあります。
 国民のエネルギーの発揮という意味では、まさにハワイを嚆矢とし北米、中南米、アジアと新しい文明社会への建設を日本人移民の先達が他国からの移民の方々と協働で担ったということもその一つだと言えると思います。
 横浜にある私どもの海外移住資料館やブラジル日本移民史料館の基本理念は「われら新世界に参加す」です。日本人移住者が新しい文明の形成に重要な役割を果たした参加者であると文明史的な意味づけを行っております。
 これは国立民族学博物館の館長であられた梅棹忠夫氏がブラジルにおけるドイツ移民150周年の基本理念として掲げられた「われらはこの地を信じてきた」と比較し、日本人移民の意味づけをおこなったわけです。
 明治の国民の自由なエネルギーの発露として、日本人移民は、新天地で新たな文明形成に参画したと言えるかと思います。
 移住150年、もちろん、ご存知のとおり、想像だにつかないような苦労をされてきたこともありました。時にはマラリアなどの病気や自然災害といった厳しい環境に翻弄されました。
 かつて、コロラドにある日本人墓地を訪れたことがあります。
 ある墓碑には、埋葬されている日本人の方のみならず、その御両親たちの出自、出身地が書かれていて、ご一家が広島を出て太平洋を渡り、ハワイに来て、アメリカ本土に渡り、西海岸に立派に定着されたものの、戦争でコロラド州アマチ収容所に入れられ、戦後解放されたものの、そのままコロラドを終焉の地としたことがわかりました。長い旅路を御苦労されたんだな、と感慨にふけったことでした。
 しかしながら、多くの移住者や日系人の皆様は困難を乗り越えられました。そして移住先国の発展に貢献し、大きな信頼を得てこられました。その結果として日本のことを理解し、親しみをもっていただけるような親日的な社会を醸成されるに至ったことに、日本人として誇りに思っています。

北岡伸一(きたおか しんいち、1948年(昭和23年)4月20日 – )は、日本の政治学者・歴史学者。国際協力機構(JICA)理事長。政策研究大学院大学客員教授、東京大学名誉教授、法学博士(東京大学、1976年)[1]。元国連次席大使(2004年4月から2006年8月まで)。前国際大学学長。専門は日本政治外交史。

image_print

こちらの記事もどうぞ