2009年10月17日付け
世界的な経済危機の影響で、私が校長を務めるサンパウロ州立校は日本からブラジルに帰国した親たちの子どもを受け入れた。予想外の出来事で、経済的に何も計画のない形での帰国であるために、多くの親は子どものために公立校の空席を探すことになってしまったのだ。
このような生徒を受け入れている多くの学校は、彼らを受け入れるための態勢が整っていない。日本語ができる先生がいれば、これらの生徒を学校に馴染ませることもできるだろうが、そういう教師もいない。
危機後、3人のデカセギ子弟を受け入れた。彼らの最大の問題は、言語への適応である。言葉の意味を知らないため、学校で孤立してしまう。
この3人のうち一人の生徒は、父親がもうデカセギとして日本に行かないと約束して帰国したと話していた。
この父親が悲しみと怒りを入り交えて説明するには、「ブラジルに帰国する際、日本政府に対してもう二度と戻らないという、不公平とも考えられる約束をさせられたのは屈辱だった」という(※編集部注=政府が打ち出した帰国支援。原則3年間の入国制限がある)。彼は、ブラジルはそれとは逆で、どんな時でも多民族の移民を歓迎してきた、と話していた。
次に、もう一人の生徒に注目してみたい。10歳で今年6月に両親と女兄弟と一緒に帰国した。彼は6歳のときに日本に行き、日本の公立学校に通って識字教育を受けたため、家族とは家で日本語で話すしか方法はなかった。そのために、現在もポルトガル語の理解や解釈、作文に困難が見える。
結果的に、算数の問題を解くときや、歴史や地理の文章理解力など、他の教科の勉強にも悪影響を及ぼしている。最大の壁は、言葉の意味の理解である。
それだけならまだ良いが、彼が私たちの学校に入学してすぐにある出来事が起こった。両親は、他の学校のほうが彼が日本で通っていた学校と教育の仕方が似ていると判断し転入させた。
しかし数日後には、二つ目の学校で受けたイジメに耐えることが出来ず、私たちの学校―同じく適応の問題があったが、その学校に比べればまだ良いと思われる―に戻ってきたのだ。
この生徒は、日本に残してきた友達や親戚と二度と会うことができないという大きな恐怖から抜けきれず、また新たに大切なものを喪失するのが怖くて、級友たちとあまり関係を持とうとしないようだ。
このようなケースは私たちの学校に行き着いた他の生徒たち―錯乱状態にあり、集中力がなく、困惑し、周りの人間を信頼することができない―によく見られる。そのせいで教師や級友と距離を置くようになってしまう。教師の側も、人間関係においても勉強においても困難を克服できるようにもっと深く関わらなくてはいけないだろう。
私たちの学校では、人間関係の面では、生徒やその両親と直接対話を重ねるようにしている。また勉強については、教師と生徒がお互いの置かれている状況を分かりあえるような環境を作ることを心がけている。そして、彼らと触れ合うことによって、それらの生徒が違った文化を私たちに届けてくれることを期待している。
藤江千恵子(ふじえ・ちえこ)
EE Ana Pontes de Toledo Natali(サンパウロ州立校)校長。1990年に教師として働き始め、2002年7月から現職。