レジストロで「富士山写真展」を準備していた時、パネルを張っている後ろから、警備員らしき日系人が近寄ってきて「これは浜松か?」と指を指した。アクトタワー越しに眺めた霊峰の写真だった。「そうだ」と応じると、「6年も浜松に住んでいた。こんな懐かしい眺めが見られるとは思わなかった」としばらくじっと見つめていた▼コラム子が群馬県大泉町の工場でデカセギと共に就労していた97年頃、ブラジル人同僚が「富士山に登りたい」というので、6人ほどで行ったことがある。運転手役として五合目で皆の下山を待っていると、彼らは疲れきっていたが、とても充実した表情で帰ってきた▼写真展会場で「子どもの頃から子守唄代わりに『♪富士は日本一の山~』と聞かされてきた」というのは、山下譲二さん(70、二世)だ。両親は鹿児島出身だが、霊峰には特別の思い入れがあったようだ▼山下さんは「71年に初めて訪日した時、知人から『箱根から見る富士が最高だ』と教えられ、ハイキングして峠を越えた瞬間に、雄大な富士がドーンと聳えているのが見えた。あの時の感動を今も忘れない。両親が言っていた通りだった」と語った。「写真展を見て、あの時のことを思い出しました。私にとってあくまで神聖な山、登りたいと思ったこともない」▼思えば、お隣のセッチ・バーラス文協の壁には鳥居、茶畑の奥に富士山という象徴的な壁画が描かれている。当地日系人は元より、デカセギ中に富士登山をしたブラジル人は間違いなく数千人以上いる。この写真展を主催したことで、日系人の頭の中でも、日本と富士山の間にはすでに深い関係が生まれていると痛感した。(深)