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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(93)

旧コチア紡績工場(現インテグラーダ経営)

旧コチア紡績工場(現インテグラーダ経営)

 そうした中で、北パラナ単協の組合員たちは、諦めなかった。1995年末、全く新しい組合インテグラーダを設立、起死回生を図った。これには、同単協に属していた22レジョナル(地域)の内14レジョナルが参加した。
 その代表28人が出席して創立総会を開き、1281人が組合員として参加、本部をロンドリーナに置いてスタートした。その後、幾つかのレジョナルの出入りがあったが、現在は、数は同じ14レジョナルとなっている(地理的には、北パラナ以外に位置するレジョナルもある)。
 なお右の過程で、北パラナ単協の理事長だった上口稔氏が、危機乗り切りのため走り回っていた時、交通事故で落命している。明らかに過労が原因だった。筆者は、その少し前、同氏に会って取材をしていた。
 ほぼ同時期、やはり取材のため会った南パラナ単協の徳武睦雄氏も、心筋梗塞で急逝した。こちらも単協の存続のため活路を求めて必死になっていた。そのストレスが引き金となった。
 その後も含めて、筆者は知合いのコチア人が、次々と死んで行くという経験を味わった。コチアだけでなく、スールや南銀の落城も含めれば、驚くほどの数になった。いずれも明らかに〃戦死〃であり、自分が従軍記者の様な気がした。
 そういう思いもあったため、インテグラーダ好調の話を聞いた時、咄嗟に混乱してしまったようである。しかし、後で気づいたことであるが、コチア解散後20年余になるのに、その清算業務が完全に終ったという話は聞いていない。コチアの瓦解によって損害を受けたままの債権者は無数にいる。
 コチアの生き返りなどと認めれば、債権者から何かと面倒な話が持ち込まれかねない。さらに、インテグラーダには「コチアの失敗を繰り返すまい」という意識が非常に強い。
 従って、そういう意味でのコチアとの縁は、スッパリ切りたい方であろう。
 次にアサイ紡績工場に関して、であるが。――この工場については、筆者には二つの記憶がある。
 一つは――コチアの瓦解が表面化した直後、債権銀行の人間が、抵当権を設定してある機械類を運び出そうとして、カミニョンを連ねて押し寄せた。これを従業員たちが自主的に動いて断固拒否、守り抜いた。
 それを聴いた時、筆者は、日本の戦国時代、本城が落ちた後も、そこから遠く離れた砦の兵たちが、押し寄せる敵の支隊と戦い、これを撃退する光景を思い浮かべた。
 もう一つは――中央会解散後、清算委員たちが、各地にあるコチアの施設を、特別に長期、格安の条件で、地元の組合員に貸与した。ために後に債権銀行から告訴され、解任された。が、貸与契約はそのまま有効であった。清算委員たちは、告訴・解任は覚悟の上で「組合員を慰め、励ますために」そうしたのであろう。
 その時、アサイ紡績工場をインテグラーダに貸与している。1980年代末の建設時の予算で6、000万ドルの工場を、極めて有利な条件で利用できた。
 従って、インテグラーダ創立後、その経営が軌道に乗ったのは「あの工場があったからだ」という説は、早くから流れており、筆者も耳にしていた。
 やがて製品の綿糸は、廉価の中国産の流入で、市場価格が下落したが、それまでは、好利益が出ていたという噂だった。 そういうことで、筆者は、従業員たちの組合愛、清算委員たちの思いやりが実ったと思っていた。が、今回の取材でのインテグラーダ側の話によると、「(紡績工場の操業で)現金が入ったので、運転資金のヤリクリには役立った。(調べてみないと判らないが)利益も少しは出たかもしれない」という程度であったという。