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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(12)

 下元健吉の創造心の話を続ける――。
 1936年、彼はコチアに「増資積立金」という制度を作った。これは「組合員の出荷物の売上げの一部を天引きして積み立て、組合の資本金に組み入れる」というシステムであった。
 しかし、組合員は組合加入時に出資金を納め、以後は生産物の出荷・販売時に手数料を払っていた。それ以外に、この増資積立金を差し引かれることになったのである。2%であった。
 組合員にとっては、聞いたこともない制度だった。当然、これを審議した総会では囂々たる反対の声が巻き起こった。
 が、下元は押し通した。彼は会議で自分の意見が通らないと「辞める!」と席を蹴って上着をかついで出て行くのが常で、在職中そういうことが何度もあった。
 「辞める」とは専務を…という意味である。ところが、後任のなり手がないため、他の役員や古参の組合員が、彼を自宅まで追って行って、慰留するのが常であった。この増資積立金の場合もそうだった。
 下元の言い分は「既存の組合員の増産分や新しい組合員の生産物を保管する倉庫、取引市場での販売ポストが必要であり、そのための増資積立金である。組合は一般企業と違って、利益率を一定限度内に抑えられており、そうである以上、増資で賄う以外ない」という主旨であった。
 一応、話の筋は通っていたが、2%というのは組合員にとっては重荷だった。強行すれば、反対派からは組合を脱退する者が出るであろう。結果として組合員が減少すれば、下元の敗北であった。ところが、この制度、結局、実施と決まったが、組合員は増え続けたのである。 

形破りにして合理的 

 実は当時、サンパウロ市やその周辺では、非登録組も含めて日系の産組が多数できていた。が、保管倉庫の容量や販売ポストの面積に限度があり、(地方から移動してきて)増え続ける邦人農業者を受け入れることができないでいた。組合加入を望む者は、増資積立金を引かれても、コチアを頼らざるを得なかったのだ。
 下元は、こういう実情を十分に把握し、「組合員は減らない、むしろ増える」と見切っていたのだ。
 ともあれ、この増資積立金で、コチアは必要な施設を次々と確保、新組合員をドンドン受け入れた。新組合員が入ると、その出荷分、また増資積立金が入ってきて、投資ができた。
 以上の活動地域の拡大、増資積立金の他、下元は後々まで種々の独創的な策を打ち出している。この創造心の豊かさは何処から発していたのだろうか?
 ここで筆者は本稿(6)で紹介した小澤孝雄説を思い出す。小澤は土佐の思想的風土、特に坂本龍馬が下元に強い影響を与えていたと観ている。龍馬は討幕を志しながら、幕府の海軍操練所に入って、その資金で航海術を学んだ。
 次は反幕勢力の筆頭であった薩摩藩の出資を受けて亀山社中(後の海援隊)を起こし、討幕運動を展開した。同時に――武士がそれに手を染めることは否定されていた――商売をやった。
 さらに犬猿の仲であった薩摩と長州を同盟させ、遂に将軍を大政奉還に追い込んだ。つまり既成の概念に捕らわれぬ形破りの発想をしながら、極めて合理的だった処に特色がある。
 下元は、この点では酷似している。ただし、その発想は思い付きではなかった。あらゆる条件を研究し抜いた上での結論であった。彼はいつも夜、ベッドの上で煙草を吸いながら考え続けた。気づかぬ内に、煙草の灰が落ち、ベッドは穴だらけになった。灰が焦がしていることに気づかぬほど集中して考え続けていたのである。(つづく)