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《特別寄稿》新聞の力で幸せの種を植える=移民を支える海外邦字紙の使命=サンパウロ市ヴィラカロン在住 毛利律子

ニッケイ新聞の前身、パウリスタ新聞の創刊号1947年1月1日付

日本語での新聞は、日系移民社会の結節点

 ニッケイ新聞が廃刊となり、「ブラジル日報」に新生する過渡期にあたり、一綴りにした「紙のニッケイ新聞」を読み返してみた。
 手元にあるのはわずかな年数の、多少変色した新聞を綴ったものであるが、その紙面を一枚一枚めくりながら、ブラジル日系移民社会の過去にタイムスリップし、多くの記事を感慨深く読んだ。
 これが「紙」でなく、ネット、スマホ、あるいはアイパッドなどの画面で読むとしたら、どうだろう。電子機器は確かに便利だけれど、指で流し読みするため昨日の出来事もほとんど記憶に残こらない。
 ところが「紙の新聞」の魅力は読み返すたびに何か予想外の発見がある。取材した記事を書き、編集し、印刷する。それを配る人、新聞が便りと、楽しみに待つ読者…。
 そのような多くの心が通い合う、不可欠な伝達物であるのだ。
 紙上では、ブラジル各地で、毎月のように開催されている各県人会、団体のもろもろの文化活動が賑やかに紹介される。ブラジル国内、国際報道、日本の動向をはじめ、祖国日本の四季歳々の行事、ブラジルに来る重要人物、芸能人、有名人たちの報道等々。
 わずか数ページに驚きの評論や文芸作品、文壇の作品が並ぶ。日本政府から渡される多くの名誉賞の発表。成功物語。幸不幸、訃報…悲喜こもごもの体験談がつぶさに語られていて、興味は尽きない。
 将来を展望しての日本語環境の取り組みも興味深い。言語の消滅はその国の文化の消滅となるのであるから、移民先での振興活動は、祖国の文化思考を保持・継承する堅固な土台造りであり優先事項である。
 世界の近代移民史では、祖国を離れ異国に移民した人々が移民先で現地になじむための必死の努力はもとより、まず力を入れたのが、母語媒体として必須の新聞づくりであった。
 日系移民社会における日本語による新聞の意義とは、異郷での諸団体の結節点(ハブ)、拠点となって機能していることを、新聞紙をめくり、記事を追って痛感するのである。

米国でも最も身近で心強いものだった邦字新聞

スタンフォード大学フーヴァー研究所の邦字新聞デジタル・コレクションのサイト

 明治半ばに北アメリカに渡った日本人にとっても、移民先で最も身近で心強いものが邦字新聞であったという記録がある。
 当時は、海外に移住していても明治新政権の厳重な監視下での言論統制があった。そのため、移民先での発行わずか一年ほどで廃刊になった新聞があるが、廃刊直前の編集者の嘆きが率直に記された新聞を紹介したい。
 邦字新聞とは、日本語の新聞という意味で通常、「日本以外の世界各国で発刊されている日本語新聞」を指す。
 アメリカ合衆国カリフォルニア州スタンフォード大学の「邦字新聞デジタル・コレクション」「ジャパニーズ・ディアスポラ・イニシアチブ」のサイトでは、北米初期移民の発行した新聞を閲覧することができる(https://www.hoover.org/library-archives)(https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=snh18871118-01.1.5&e=——-ja-10–1–img-
 この研究所のライブラリーは、明治時代から第2次世界大戦終了までの記録を基礎とする海外の日本人、日系コミュニティー研究のオープンサイト・リソースであるが、いくつかの項目で構成されている。
 その一つの「地図で新聞を閲覧」の項目を見ると、明治時代に世界に広がった日本人移民による新聞社の所在が示されている。
 米国本土、ハワイ、カナダ、メキシコ、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、中国、インドネシア、韓国、ミャンマー、ペルー、フィリピン、ロシア、シンガポール、台湾、タイ等の中心市街に拠点のあった邦字新聞社などである。
 地図上の当該地には目印番号が振ってあるので、その番号の上でクリックすると、社名がずらりと並び、記事が読める。

自由民権運動で明治政府から弾圧を受けた人が創刊した最初の邦字紙

 海外初の邦字新聞は、1886年のサンフランシスコの「東雲(しののめ)」とされ、1887年には、同じくサンフランシスコで「新日本Shin Nihon」が刊行された。この新聞は政権紙で、自由民権期(19世紀)に日本政府の弾圧を逃れた人々が、サンフランシスコなどで新聞を発行した。同サイトでは次のように解説している。
 「新日本Shin Nihonは米国で発行された初期の日本語新聞で、和歌山県出身の畑下(山口)熊野が1887年に創刊した。日本の言論の自由を主張、照準は米国の日本人コミュニティよりはむしろ日本の購読層だった。『新日本』は政治論を主体とし、日本では可能でなかった日本の政治を批判した。その結果、日本政府から発禁処分となり、今日見つかっているのは第8号のみで、1888年2月13日が最終号となった。畑下は日本に帰国後、反政府新聞を米国で発行した罪で逮捕された」
 初期移民の新聞が米国内移民ではなく、日本に向けられ発行されたというのは、興味深い話である。

「漢字カタカナ交じり文」の手書き新聞

 現代の日本人は「漢字ひらがな交じり文」を使っている。幕末・明治期の知識層が一般的に用いた書き言葉は、漢字とカタカナ(漢文では読み仮名・送り仮名にカタカナが振られた)で、学問的な文章や公的な文書は、「漢字カタカナ交じり文」で書かれていた。
 1887年11月18日の、「新日本Shin Nihon」も同じく、手書き(ガリ版刷りと思われる)の「漢字カタカナ交じり文」で書かれているので、なじみのない現代人には難しいと感じるだろう。
 しかし、語彙は豊富で、表現はとても格調高い。マネしたくなるようなすばらしい日本語に、改めて感銘を受けたのである。これも新聞の効力といえよう。

廃刊時の編集者の痛恨の思い

 さて、刊行わずか一年で廃刊に至ったときの「新日本Shin Nihon」編集者の無念・痛恨の思いが次のように記されている。
 「社告。論説、寄書、雑報スベテノ山ノ如クナル紙数尽キクレ譲ル〇本誌ヨリ印刷ヲ取換ヘ体裁ヲ改メルモ何分未整頓ノ折柄故未鮮明ノトコロアレバ宥恕ヲ望ム〇本号付録ニハ谷子意見を全載」(「新日本Shin Nihon新聞社」カリフォルニア州オークランド府サンパブロアヴェニュー1311、第31室)
 (付記=文中の「谷子(中国語音・グージイ)意見」を辞書で拾ってみた。すると、古くさくてつまらない話や物事のたとえ。中国語のもみ殻付きのコメ、粟などの雑穀という意味であった。それを踏まえて、「谷子意見」を「数多くの意見」とし、「全員の意見を全部載せた」と解釈した)
 そして、枠外の添え書きには次のように綴られている。
 「日本行き郵船出帆期日11月29日、12月2日、21日、31日〇めをキシ新聞ハ八百七十六号ニテ発行中止セザル嗚呼ゝゝ星享氏等の発起ニテ公論新報発行ノ企テアリ」と綴られている。(当サイトのデジタル資料は手書き文面を写し取ったもので、古く読みずらいので、筆者の理解に間違いがあるかもしれないことを、あらかじめご了承いただきたい)
 現代文にすると、「山のようにある論説、寄書、雑報など紙数を尽くせぬが、本誌から印刷を取換、体裁を改めても、それでも未整頓、未鮮明であることをなにとぞご寛恕いただきたい。付録ニハ、数多くの意見を全て掲載した」
「日本行きの郵船が出発する11月29日、12月2日、21日、31日の876号を以って発行中止せざるを得ない。
ああ、アア・・・
星享氏等が発起人となって新報が発行されるとの企画が上がっている」
 社説とはいえ、編集者が「嗚呼ゝゝ」と吐露しているところに、編集者の圧迫した胸の内を知らされるのである。

政論新聞とは

 1880年代の国内で、政治意識に目覚め,自由民権運動に参画した民権派青年たちは、80年代終わりから90年代にかけて続々と渡米し、在米で、海を隔てて、言論を武器に自由民権運動を展開した。
 『東雲』、オークランド「新日本」、愛国有志同盟会による『第十九世紀』、いまだに現物は確認できない『自由』。そのあとに『革命』『愛国』、『小愛国』、『第十九世紀新聞』とつながった。
 これらの新聞は発行して国内に届けられるたびに、発行発売禁止や国内への持ち込み禁止処分をうけている。1893年、日本人愛国同盟による米国での機関紙発行は終焉を迎えた。
 その後、政論紙は衰退し、コミュニティー紙が現れる。サンフランシスコの「新世界」「日米」ロスアンジェルスの「羅布新報」、シアトルの「大北日報」「旭新聞」などである。

日本語新聞の発達と衰退の理由

 在米日本人コミュニティーにおいて日本語新聞が発達した理由として、移民の英語へのアクセスが難しいこと。祖国の動向を知りたいという焦燥感、日本語を読みたい、書きたいという日本語での文化的活動への渇仰。離散する居住地への働きかけ。多様な出身階層構成や経済的余裕の有無を超えて、コミュニティーを繋ぎ、維持し発展させる拠点として役割を果たせること。
 新聞社としては移民の日常活動上、需要と供給の情報を共有するための物流の宣伝効果は大きく、広告費による運営が容易であったこと、などが上げられる。
 また、アメリカ国内で発行し、印刷は日本でという手段は、船賃を含めてもそのほうが採算が良かったということである。
 なお、同サイトでは邦字新聞の廃刊のスピードが速いことも記されている。その一番の理由は、日本語を読む一世が亡くなっていく世代交代と、「アメリカ人にならねばならない」歴史の必然性であった。しかし1970年以降、日本国民特有の精神性の表明、母語の保護再生への取り組みなどが顕著となっている。

紙面をにぎわす「幸せの種をまく人の存在」

幸田露伴「努力論・現代語訳」中村喜治訳

 ブラジル日系移民の新聞・書籍・多種多様な母語での文物は血流のように移民社会を繋ぎ、成長させてきたという歴史は重厚である。
 移民社会における活発な交流では、情報の共有、新しい知見の獲得、練磨があった。新聞紙上には絶えることのない新旧の流入と交代、日本文化の保護、創出の目まぐるしい動きが報道され、社会の源泉となっていることが分かる。
 ここには驚くほどに分厚い日本的意識があり、それは過去に偏狭なナショナリズムへの執着となって対立を生んだこともあったが、それらは逐一報道された。
 新聞は常に、移民たちの志向に応えて日本文化の展開を支える土壌になっていたのである。
 そして、そこには未来に向けて「植福」に献身する人々が歴然として存在していたことを知る。
 幸田露伴の「努力論」に「幸福三説。惜福、分福、植福」の話がある。「植福、すなわち幸福の種を蒔く」という教えである。
 このような思想は仏教他、多くの学問で勧められるが、非常に含蓄のある内容なので、要約するのは語弊を生む。ぜひ、じっくり読んでいただくことをお勧めしたい。
 ここでは、本文の一部を現代語訳で紹介する。
「植福の行為は自然に二重の意義を持ち、二重の結果を生じる。何を二重の意義、二重の結果というかと云うと、植福の一ツの行為は自己の福を植えることであると同時に、社会の福を植えることに当たる。これを二重の意義を持つという。後に自分自身がその福を収穫すると同時に、社会にも同じくこれを収穫させる事になるから、之を二重の結果を生じると云うのである。
 一株の樹を植えるその事は甚だ微少些細なことであるけれども、その事の中に含まれている将来は(永遠無限)なもので、その久遠宏大の結果は実に人の信念の機微に繋がっているものである。
 一心一念の善良な働きがどれほどの福を将来に生じさせるか知れないのである。一株の樹を培養成長させることは、些細なことには違いないが、自分に取っても他人に取っても幸福利益の始まりとなることである、ゆえに福を植えると云って誤りはないのである」
 移民の新聞とは、異郷の移民先で故国の誇りを高く掲げて真摯に生きる人の思いに、新聞を作る人の熱意が相乗して移民社会を支える土台を築く地道な作業であった。そしてそこにはいつも、未来のために種を蒔く、力強い人々が求心力となっていたということを教えてくれている。
【参考文献】
幸田露伴「努力論・現代語訳」中村喜治訳https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/59484_66447.html
(「自由民権期における在米・在布日本人の権利意識」新井 勝紘11795051_02.pdf)