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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(18)

 そのうち、「親戚の安瀬盛次に、店を継がせては……」という声が上がった。
 安瀬は以前、数カ月、この店を手伝ったことがあり、債権者の一人が覚えていたのである。「鈍重、牛の如し」と評されたが、鋭い閃きを見せることもあった。真面目で働き者でもあった。推薦者は、そこを見込んだのである。
 この店主が夜逃げをしたアルマゼンを継ぐという話、凡人なら断ったであろう。1コントが大金の時代に、その50倍の負債である。が、彼は「50コントスの債務を半減して、3年賦にする」という条件を出し、債権者側の了解をとって引き受けた。
 これが結果として、当たりに当たり、商売は伸びに伸びたのである。戦前末期、彼が40代の末の頃には、総資産2700コントスと言われた。この間、アラサツーバ、その西方のバルパライーゾに支店を出した。カフェー精選所、精米所などを次々建設した。カフェザールも造った。
 一方で、地元やノロエステ線の邦人社会の諸団体の会長、役員を務めた。二世教育のため、アラサツーバ学園建設の先頭に立ち、大金を寄付した。アルマゼンで儲けていることで、農業者の恨みを買わぬようにする──という配慮もあったであろう。
 当時の肩書きの中には「福島県海外協会アラサツーバ支部長」なるものもあるから、彼の志であった郷里の人々のブラジル移住にも尽力しようとしたのであろう。ただ残念なことに、具体的成果に関する資料は見つからない。
 なお、日本の紀元二千六百年記念式典(1940年)には、ブラジルの邦人代表の一人に選ばれ訪日している。
 
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 資料類は、安瀬盛次がアルマゼンで大きく儲けた理由として、夫婦の猛烈な働きぶりを紹介している。しかし、それだけではあるまい。当時の日本移民は誰もが、猛烈に働いた。が、殆どが貧しかった。安瀬の場合は「ノロエステ線、特にアラサツーバ地方の邦人農業者は激増する、従ってアルマゼンの仕事は有望である」と先を読んで、これに全精力をつぎ込んだことが良かったのである。
 これより数年前、アラサツーバの東隣、ノロエステ線ビリグイ駅の近くで、英国系の土地会社が植民地の造成を始めた。植民地は多数造られ、それぞれ名がつけられた。
 この会社に採用された宮崎八郎という佐賀県人がリベイロン・プレット地方を歩き、ファゼンダで働いている日本移民相手に、ロッテ=植民地内の入植者用の土地の区画=を売り込んだ。
 これで1915、6年から、ロッテを買う人々が出始めた。彼らは入植するとカフェーを植え、数年後の収穫を待ちながら、間作として穀物を栽培した。その穀物は収穫後、売らなければならない。カフェーも結実期がくれば同じである。
 安瀬のアルマゼンがあるアグア・リンパは、そのビリグイの、日本人が最初に入った植民地であった。周辺に次々造られる植民地にも、多数入り、ビリグイは日本人の大集団地となって行った。この波はアラサツーバ、その西方のバルパライーゾにも広がった。安瀬の店は仕事量が増え続けた。かくして巨利を攫んだ。
 彼も上野米蔵と同様、日系社会の農業─商業─加工業という流れの代表的形成者となった。しかも、さらに新分野に進出した。金融業である。
 
 事実上の頭取へ

 戦後、南銀が再建のため、邦人社会に出資を求めた時、安瀬盛次はこれに応じた。しかも大株主になり、1949年には参事会の会長になった。参事というのは株主の代表のことである。安瀬は出資だけでなく、南銀が危機に陥った時は、全財産を抵当に差し出して、資金繰りを成功させた──という逸話が地元には伝わっている。
 かくして1950年に財務取締役に就任、5年後、副頭取に昇った。頭取は非日系人で、形式的な存在だったから、安瀬が事実上の頭取であった。南銀は日系経済界の中心的存在であった。頂点を極めたといってもよいであろう。南銀の創立者で再建の中心だった宮坂国人は専務だった。
 安瀬はサンパウロ市内に転居した。ブーグレの再生を担当したのはこの時期である。

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