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ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(5)=「帰りたかった」でも運命=ロライマ入植今年50周年

 「ほんとに帰りたかった―。それから五十年もいるけどね」と自嘲気味に話す佃さん。
 入植して二、三年後にマナウスに出ることを考え、下見にまで行ったものの、金銭的な理由や子供が小さいため踏みとどまった。野菜作りを続け、後に食料品店や家具店、電気商を営んだ。
 「あきらめの気持ち。子供が大きくなるまでは」。二年も経たず仲間が次々と脱耕していくなか、四年の契約を守り、踏ん張った土井さん。日本では行方不明の届けが出されていた。
 六五年にタイアーノを脱耕、佃さん所有の農場を借り、野菜作りに励んだ。病院や軍隊にも卸し、余ったものは自ら自転車で売りに歩いた。
 八一年には建築資材販売店を開き、現在では市内に数軒の店舗を構える。
 「帰れんし、悔やんでも仕方がないと思った」と当時の心境を語る秀島さんは、二人の息子を入植前後に亡くしている。マナウスで船を乗り換え、ボア・ヴィスタへ北上中、日本から二カ月後の出来事だった。「『子供が川に落ちたぞー』ってみんなが叫んでね」
 九歳の息子、孝徳君だった。引船と船の間に渡された板で足を滑らせたのを目撃されていた。二時間くらい船を止めて探したが、結局見つからなかった。ボア・ヴィスタに着いて、遺体のないまま教会で弔った。
 翌年には四歳の義弘君が急に熱を出し、二、三時間後に息を引き取った。同年には義父もなくなった。
 「ここに子供を埋めるのも何かの因縁、運命だなあって思いましたよ。子供のためにも頑張って、前向きに行かないと」。自らを奮い立たせた。
 秀島さん一家はタイアーノで製材所を構えており、当時ボア・ヴィスタからも注文があるほどだったが、七一年、最後の脱耕家族となり、ボア・ヴィスタ市内で野菜作りに取り組んだ。
 「ここの土地は砂地でね。牛糞や化学肥料をやらなきゃいけない。土地はタイアーノの方がいいよね」孫たちに囲まれて過ごす現在でも、アサイやアセローラなどを育て、スーパーなどに卸している。
 「さっぱりしたね」。土井さんは数年前、シロアリに食べられ、穴だらけになっていた当時の写真をすべて燃やした。
 マンジョーカの汁を煮詰めたしょう油。フェイジョンの味噌。バナナを糠にした漬けもの。青いマモンのカンピョウも今では懐かしい思い出となった。
 「昔のことは悲しくなる。前向き前向きにね」。佃さんは現在、腰を痛め二年ほど自宅療養を続けているものの、俳誌「はちどり」創刊から二十年、毎月投稿は欠かしたことがない。
 二千数余、といわれる「消えた移住地」のひとつタイアーノ。ロライマへの元入植者で、ボア・ヴィスタに在住するのは、佃、土井、秀島さんの三人のみとなり、その歴史は今や語られることも少ない。
 しかし、数々の辛酸をなめながらも「地の果て」といわれたブラジル最北の地に根を下ろした日本人の姿が確かにあった。   (堀江剛史記者)

■ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(1)=ロライマ州唯一の入植地昔、雨季には町まで10日

■ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(2)=正月は一度も祝わず 野菜作るも需要なし

■ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(3)=インジオと結婚した噂の〃ナカムラ〃さん

■ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(4)=現地化生活しつつも日本人の誇り忘れず

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