メスキッタ帰る
終戦後、鉄道工事は再開された。が、この間、北パラナ土地会社に、大異変が起きていた。
ここで「一章 カンバラー」で紹介したガストン・メスキッタに再登場して貰う。1936年、彼は北パラナに帰ってきた。すでに青年期を過ぎていたが、自分の手でパラグアイとの国境まで鉄道を通す――という少年時代の夢を忘れてはいなかった。発電所の建設の仕事などをしながら、チャンスを待った。
1942年、耳よりな噂を耳にした。北パラナ土地会社が売りに出されている――というのだ。第2次世界大戦で英国は次第に国費が増大、政府は外国に投資されている自国資本を、国内へ回収する政策をとっていた。 メスキッタは直ちに動き始めた。友人の銀行家たちと組んで、2年間の難交渉の後、北パラナ土地会社を手に入れた。彼は、そのオーナーの一人となった。総支配人は、引き続きアーサー・トーマスに担当して貰った。 しかし実は、この会社の買収時、メスキッタの構想を根底から覆す問題が起っていた。ブラジル政府が、サンパウロ―パラナ鉄道の国有化を、右の買収認可の条件としたのである。
鉄道は翌1945年、政府に買収された。メスキッタの少年時代からの夢は消えた。が、長い目でみれば、それは却ってよかった。高速道路の時代が来たからである。
1949年、アーサー・トーマスが病気のため引退した。後任にはヘルマン・モラエス・バーロス(同社の初代社長の息子)を迎えた。彼は以後25年間その職を務める。
新経営陣は、事業を単なる植民地のロッテ売りから、都市建設まで拡大した。そのために社名を北パラナ開発会社と改めた(開発=ポ語ではメリョーラメント)。
かくして同社は、最終的には、4万の買い手に5万の農場用ロッテを売った。鉄道を敷設、高速道路を通し、100キロ毎に都市を建設した。 都市は、周辺地帯の産業の中心基地であった。そこでは、土地を工場、病院に特別条件で譲渡した。市役所、警察、郵便局などには無償で提供した。
都市と都市の間には、既述の市街地が15キロごとに在った。
計63の都市と市街地を建設、そこで7万ロッテを分譲した。都市では、商店用だけでなく、その他の用途のロッテも売った。
都市は、最初は小さかったが、やがて中・大規模に発展した。市街地は小都市になった。
繰返しになるが、確かに一つの小国家が出現した観がある。鉄道建設より遥かに壮大で、ロマンに満ちた大事業であった。ガストン・メスキッタも本懐であったろう。
北パの宣伝人、氏原彦馬
以下、話の主役は氏原彦馬に代わる。
氏原は、土地売り……つまり一ブローカーに過ぎなかった。余り尊敬される職業ではなかった。詐欺師同然の連中が多かったからである。
ところが、この氏原、後にロンドリーナ市の名誉市民権(1961年)とパラナ州の名誉州民権(1963年)を貰っている。何故だろうか?
それと、氏原は生涯に北パラナの土地を、計3万アルケーレス以上売った――が、財は成さなかった。私生活は普通の庶民と変わらなかった。晩年はロンドリーナからサンパウロへ居を移したが、生活ぶりは同じであった。
1960年、半世紀ぶりに日本へ一時帰国をした。経費は、昔、彼の誘いで北パラナに入植した人々が醵金した。何故だろうか?
右の二つの「何故?」については、以下話を進めながら明らかにして行く。