書類第9号の翻訳の終わりに、署長は次のような事を報告している。
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《上述の内容に関連して、他の者以外にも次の証人の話を聞いた。サクイチ・ウチガミ、タカノブ・マツモト、アキラ・タニグチ、センジロ・ハタナカ並びにフェジシゲ・アケウチ。いずれもバストスの日本人コロニアでは著名な人物ばかりである。また、ユゴ・クサカベ、兵譽・タイラ、アンボ・サンジロ、クシヤマ・シキチス、ハンゾ・イシロ、シンザキ・ハヤシ、マサジロ・マジマタ、タケオ・ニシヤマ並びにキラロ・アンボは、昨年の十一月頃、リオの日本大使に、同胞並びにその子弟の教育をブラジル政府が拒絶している以上、帰還させる義務があるという趣旨の「大政翼賛同志会」の文書を送っている。同大使はそれを阻止しようとしたが、時すでに遅く、会の広報誌はバストスや近隣の町に拡散していった。
被告本人が我が政府に対して敵対感情をもっていたことを認めた。なお、マサジロ・シジモト、ユゴ・クサカベ並びにヘイタケ・タイラが主な「大政翼賛同志会」の主導者であったことを白状した。また、マリリアの警察によって、ユゴ・クサカベ並びにタケオ・ニシヤマがマリリア在住のニロマサ・アカキとミノル・シゲナガの助けを受け、広報活動に従事していたことも判明した。
真相を究明した結果、上記に記された政治機関の一員である日本人の面々、並びにその仲間は、1938年5月18日付けの第20項(法律を乱した罪)並びに25項(口頭で、または報道機関で公的権限並びにその執行人を冒涜した罪)の法令431号第3条の罪状にあたいするものと見做す。このため、社会政治の秩序を守る特殊機関を通して、本訴状を国家治安局に送る。
サンパウロ1942年9月10日。
そして、補佐官ルツガルデス・ポッジ・デ・フィゲイレードが署名するものである》
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報告書にはいかなる付記も抗弁も記されていない。上司の称賛のみが書き加えられている。ルツガルデス警察官は温厚な人柄で物静かに話し、礼儀正しい人物であった。警察官としては理論派だった。ゆえにブラジル国家の敵と見做される移住者たちの拘留という、詳細を極めた書類作成をするにあたって、必ずその役目を仰せつかっていたのである。
第5章 木材の香り
正門に向いている拘置所の二階の窓からはクルゼイロ・ド・スール大通りの雑踏が見えた。広い石畳みの路では乗用車、馬車、バス、歩行者などが行きかっていた。一年間拘留されている兵譽が毎日見慣れている光景であった。
あんなにおしゃれだった兵譽はすっかり変わってしまっていた。外見を気にしなくなり、内向的になった。勾留者に義務付けられている灰色の制服を着、髪も髭も伸ばし放題で、その格好な薄汚れたバラモン教の伝道師のようであった。彼は「シナ」「ジャパ」と囚人仲間に呼ばれることさえ気にしなかった。
兵譽と反対に、他の囚人は家族と連絡がとれずに心を痛めていた。都心に住んでいた日下部雄悟の他はサンパウロ州の西部地方の農村地帯出身で、彼らの不在は収穫に大きく影響している。
その上、時代は軍事国家の独裁政権下にあり、書類は煩雑を極め、病人が出た場合など、診察を受けるための書類の数が多く、その手続き中に病人は死んでしまうほどだった。彼らの誰一人として国選弁護士がついておらず、外からの折衝といえば、たまに病気の囚人に呼ばれて訪れる神父か医師だけであった。
囚人の多くは届く当てもない手紙を書いた。それは気を紛らす手段でもあったのだ。そのような手紙は間違いを正すために、グループ内で一番の物知りと見做されていた兵譽が目を通した。手紙は、日本文で書かれるとブラジル国への侮蔑だと見做され、事態をさらに悪化させる恐れがあり、みなポルトガル語で書かなければならなかった。