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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(26)

「おいおい誰かは無いだろう」と押し問答の最中、後ろから白いベンタル(上っ張り)を着た技師の中村さんが手を振りながら走って来た。そして、またその後ろから、先の理事長さんが白いベンタル姿で、これまた飛んできた。
 これには流石の千年君も驚いた。小河原場長がまだ何か言いたげにしていた。
 それを振り切る様に中沢理事長さんが「小河原君、良い、良い。千年さんは間違っちゃおらん。ワシが悪かった。ワシが千年さんに謝らにゃならん。小河原君、ワシのほうがうかつじゃった。これから先は気をつけましょう。中村君の言う通り、今は一番養鶏農家が大事な時期だ。このくらい、厳しく管理して貰わんといかん。千年さんあんたがセルト(正しい)。これからもよろしく頼みますよ」と云った。
 ともあれその日は、千年太郎の存在感がスール・ブラジル(南伯産業組会)中央会内に、理事長談話として伝えられ、一躍千年君のお株が上がる逸話と成った。この時期は、サンパウロ州内に鶏ウィルス病が蔓延し、農家は怯え戦々恐々していた。その撲滅が課題であった。特に種鶏場は神経質に成らざるを得なかったのだ。
 種鶏場界隈の防疫には厳重を要しており、幸い当種鶏場は難を免れた。中沢理事長の判断実行が効をなしたエピソードで有りました。
 そんな事のあった数日後、千年君の細君は、これまた目出度く長女をアチバイア市のマテルニダーデ病院で授かり、千年一家に春が来た。長女(啓子、スエリー)だ。一九六二年三月、行く先々で廻りの皆さんに、お引き立てされる幸運に恵まれた。また、ご先祖様のご加護か、嬉しい日々は流れ流れて、長女啓子は二歳になった。
 二歳のある日、パウリスタ線マリリア市在の橋本氏、地元組合長からお電話で、現在の種鶏場を拡大するに付き、現在の場長、岩田喜代治氏が高齢で引退したいのでアチバイアから千年太郎を呼び寄せて欲しいとの連絡がきた。
「大変光栄に存じますが、現在、南伯組合の皆さんに大事にして戴いて居ります。せっかくの御招きですが、ハイ解かりましたとは言えない事情があります」と丁寧におことわりした。
 そして翌日、今度はマリリア種鶏場長の岩田喜代治氏からの電話である。話によると「現在の種鶏場を拡張したい。適当な人間がおれば、もう一か所種鶏場を作れ」とサンパウロ本部がうるさく言って来るという。ところが、「わしは君も知っての通りもう八十じゃ。自信が無い。取り敢えず二年だけで良い。何とか考えてくれまいか」と橋本さん。
「君なら悪い様にゃあせんと言われとる。何とか一回来てもらえまいか」とたたみかける。
 親切な電話には弱い太郎君。「それじゃぁ近い内に見学に行きましょう。余り当てには出来ませんが、御邪魔します」と答えた。
 余りお待たせも出来まいと、「取り敢えず仕事の段取りをつけて三日後に寄らせて貰います」と電話を切ったら、大そう喜ばれた。
 約束通り三日後、早朝にマリリアへ着いた。橋本氏の事務所はロードピアリオ(バス停留所)から近いので、そっちにまっすぐ行った。そこで橋本さんと岩田さんが共に待っておられた。その雰囲気で、「こりゃ、やばい」とピーンと来た。
 さてここマリリア市には、サンパウロ産業組合中央会種鶏場があり、町には有名人の一人、橋本さんが組合の理事長であった。彼は開口一番「マリリアに来る気に成ったか。よく来てくれた」と、まるでムダンサ(移転)でもしてきたかのような歓迎ぶり。

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