ホーム | 連載 | 2016年 | 第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ | 第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ=(10)=伯国より亜国と関係の深い地

第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ=(10)=伯国より亜国と関係の深い地

一行は船でパラナ川を遊覧し、グアイーラと南麻州を結ぶ3800メートルの橋の中間地点をくぐった。この橋のすぐ川下にセッチ・ケーダスがあっ

一行は船でパラナ川を遊覧し、グアイーラと南麻州を結ぶ3800メートルの橋の中間地点をくぐった。この橋のすぐ川下にセッチ・ケーダスがあっ

 バンデイランテスが破壊しつくしたグアイーラの町周辺が、再び脚光を浴びるようになるのはなんと300年後だ。1882年にトマス・ラランジェイラという商人がパラグアイ戦争で協力した功績により、ブラジル帝国から開発許可をもらったからだ。
 会田さんによれば、トマスは「英国系アルゼンチン人」だ。彼の会社はパラグアイのコンセプシオンにマテ茶をアルゼンチンに輸出する目的で1877年に創立された。後にパラグアイ川の上流にあるマット・グロッソ州(当時)ムルチーリョ市、さらにグアイーラ市へと本社を移した。
 マテ・ラランジェイラ社の最初の本社があった二つの町は、いずれもラプラタ河上流にあるパラグアイ川支流の町だ。この周辺で自生のマテ茶を摘んで集め、ブエノスに出荷していた。
 ガウショー(南大河州人)やアルゼンチン人に欠かせないマテ茶は、実はこの辺の流域が原産地で、川を通して南部に運ばれていた。
 つまり、グアイーラという地域はブラジル国内だが、サンパウロやクリチーバよりも、下流のアルゼンチンとの方が深い経済的繋がりがあった独特な地域だった。
 収奪式なので、パラグアイ川流域には段々と自生のマテ茶はなくなり、パラナ川流域の方がもっと豊富だと分かり、マテ・ラランジェイラ社は1902年頃、パラナ川流域の開発を始め、1910年頃にはこの周辺が議場の中心になり、本社をグアイーラに移した。各地で港を作り、鉄道を作り、社員住宅、飛行場、映画館まで建設するなど町を一から作り上げた。それが各町のインフラになった。
 ガイドのアナさんは「ブラジルの普通の町には市制前の資料など残っていない。でもこの町には1900年代からの出納帳など詳しい資料がすべて残っている。ただし全部スペイン語、だってマテ・ラランジャ社の資料だから。ちょっとパラナ州でも珍しいわね」と胸を張った。
 同社は、川上の南麻州でマテ茶を採り、船でグアイーラまで運んだ。というのも、ここにはセッチ・ケーダスの滝があるために、これ以上、船が遡行できない。
 そのために、流れの穏やかな川下地点までマテ茶や木材の積荷を迂回させるために、原始林の中を60キロの鉄道(Estrada de Ferro Guaíra a Porto Mendes)まで敷いた。これは1911年に運行を始め59年まで動いていた。
 パラナ川沿いの両岸はテーラ・ロッシャで有名であり、下流にあるフォス・ド・イグアスのパラグアイ側のイグアス移住地などは、まさにそこに位置する。
 最初に案内されたセッチ・ケーダス博物館には、グアイーラに建設予定だった巨大ダムの模型があったので、ガイドに尋ねると、「政治的な理由でフォス・ド・イグアスに移動された。1984年にそのイタイプーダムが竣工され、こんな川上までがダム湖となり、滝は水没した」とのことだった。
 会田さんは「橋本さんはこよなく滝のある地域を愛し、あの周辺だけにしか生育してなかった珍しい植物をつぶさに採取していました。今では全て水没してしまった。橋本さんのされた仕事は、本当に意義深いもの」としみじみと称賛した。(つづく、深沢正雪記者)

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