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《記者コラム》ブラジル近代史に残る日本移民迫害事件を初めて描いた映画『オキナワ サントス』

今から78年間前の1943年7月8日に、サンパウロ州サントス港湾部在住の日本移民6500人(大半が沖縄系移民)、ドイツ移民数百家族が24時間以内の強制立退きを命じられたことは、ブラジル一般社会はもとより、日系社会においても知らない人が多い。まして世界でも日本でも知られていない。

松林要樹監督(提供写真)


 そんなブラジル史に残るタブー的大事件を描いた世界初のドキュメンタリー映画『オキナワ サントス』の制作者は、ブラジル人ではない。沖縄県在住の松林要樹監督だ。7月31日から沖縄、8月7日から東京で上映されると聞き、心から祝福したい。

DOPSがある限り困難だった歴史掘り起こし

 ブラジル沖縄移民研究塾(宮城あきら代表)が発行する『群星』6/7巻合併号247頁(2021年4月発行)には、サントス強制立退き事件について、次のように要約されている。
 《例えば、当山正雄家、比嘉ゆうせい家、新里しんき・しんえい家、橋本ルイス家のように、築き上げてきた家屋・財貨の全てを失い、着のみ着のままサンパウロ州奥地に生き延びた人々の戦時下の苦しみ。
 比嘉アナマリアさんの証言のように、銃で武装した兵隊に追い立てられ、数千の人々の泣き叫ぶ声と怒号で混雑するサントス駅構内でお腹の中のわが子を守るために必死に机の下に潜り込み生き延びた母や父、行動を共にした叔父家族のつらい悲しい思い。
 また佐久間ロベルト家のように9カ月の身重となった母とともに奥地マリリアに生き延び、そこで無事に出産したが、新しい暮らしを始めた2年目に母は再び妊娠し四つ子を産んだ。しかし病院は「敵国の子」だからと適切な処置をせずに病院から追い出し、2人の赤子が尊い命を落とす言表し難い痛恨の事態に直面しました。
 さらに、屋比久トヨさんの証言によると、姉は退去命令を受けた時、夫が不在であったために、3人のわが子を抱えて恐怖のために震え上がり、それが原因となり生涯精神の病に侵されてしまった耐え難い悲しみをも生み出しているのです》
 この事件の衝撃は余りに強かった。コラム子はこれが終戦直後にブラジル日系社会で起きた「勝ち負け抗争」の原因の一つだと考えている。このときのブラジル政府の仕打ちに対する復讐心が民族内に内向した結果、「日本が負けたはずはない」という一部の過激思想を生んで殺し合いに発展したのではないかと思う。
 ブラジル近代史において特定の民族に対する弾圧の歴史は、今まで掘り返されてこなかった。

映画『オキナワ サントス』の一場面、サントス強制立退き証言を集める打ち合わせをする宮城あきらさん(左)と山城勇元沖縄県人会長(提供写真)

 それは、大戦中にサントス強制立退きなどを実行したヴァルガス独裁政権時代の政治社会警察(日本の特高警察、DOPS)という組織は時代を超えて生き残り、1965年から始まった軍事政権でも治安維持活動として、反政府ゲリラの粛正や弾圧を担当したからだ。
 軍政時代にDOPSに不当逮捕された行方知れずになった反政府活動家は未だに多く、どうなったか分からない。
 今の中国で香港民主化運動の歴史を調べようとしたら、どうなるか? それと同じ問題がブラジルではあまりに長く続いた。前世紀、ブラジルでは2回も軍事クーデターが起き、独裁政権が作られた。この二つの独裁政権にまたがってサントス強制立ち退き事件は隠されてきた。1985年に民政移管してもその組織は残り、2003年の左派政権誕生まで、その間の出来事を掘り返す作業には危険を伴った。
 03年以降少し状況が変わり、ようやくこの件にも光が当てられるようになった。つい最近だ。だがその頃には、当時のことを証言できる人は高齢化し、子供時代に強制立退きを体験した人が残っているだけだ。
 そのような証言を、沖縄県人会の全面的な協力を得ながら丹念に拾い集めて映像化したのが、この『オキナワ サントス』だ。

大戦の戦局を左右したブラジルの戦略的位置

 このサントス強制立退き事件が起きた背景には、知られざる当時の世界情勢が関わっている。第2次大戦の行方を左右する大事な鍵がブラジルにあったからだ。
 「もしもブラジルが連合国側に付かなかったら、第2次世界大戦の結果が変わっていたかもしれない」――これは2009年6月6日付エスタード紙《「米国はナチスのブラジル侵略を恐れていた」》(https://internacional.estadao.com.br/noticias/geral,eua-temiam-invasao-nazista-no-brasil,383586)に書かれているアメリカの学者フランク・マックカーンの言葉だ。
 1941年12月8日、真珠湾攻撃を受けて米国がやったのは、日本への反撃ではない。南米、特にブラジルを掌握することだった。翌月の42年1月15日から27日まで米国が主導してリオで汎米外相会議を開催、アルゼンチンをのぞく10カ国に対枢軸国外交断行を決議させた。
 ここから、ブラジルにおける日本・ドイツ・イタリア系移民への差別、弾圧が熾烈になる。
 重要な食糧供給国だったブラジルからの米国への物資補給ルートを断ち切るため、ドイツ潜水艦は大西洋、特にブラジル沿岸で神出鬼没に展開し、伯米を行き来する商船や貨物船を繰り返し攻撃して十数隻を沈没させ、両国には莫大な損害が生じていた。
 ブラジル政府は主要輸出港であり、軍事的要衝地でもあるサントス港湾部に住む枢軸国移民がスパイ行為を働いているから、こんなに容易に艦船が沈没させられるのではと考え、強制退去を命じた。その結果、日本移民を中心に強制立退きが実行された。
 なぜ、真珠湾攻撃を受けた米国が、最初にやったことが南米諸国を連合国側につけることだったかといえば、ドイツ帝国に占領された欧州と北アフリカの情勢をひっくり返すには、米国は圧倒的な軍事力を送り込む必要があり、その輸送ルートを確保する必要があったからだ。

欧州戦線に圧倒的な兵力を送り込むためには「マイアミ―ベレン―ナタル―アフリカ―欧州」という航空路確保が大命題だった。もしも米国が太平洋戦線、欧州戦線、南米戦線と3つの総力戦を維持しようとしたら、とんでもない国力浪費を招いた

 当時の航空機の航続距離は短く、ニューヨークからロンドンまで一気に飛ぶことができなかった。大西洋の地図を見ると分かるが、南北米国大陸とヨーロッパ・アフリカ大陸の中で、一番距離が短いのはブラジル東北海岸のナタルと、西アフリカ西端のギニアやリベリアだ。
 欧州戦線を維持するにはマイアミ―ベレン―ナタル―アフリカ―欧州という航路確保が大命題だった。ここならば、当時の貨物機が一気に渡ることができた。
 このルートが確保できなければ米軍は、ナチス軍に支配された欧州の回復にはもっと時間がかかったと思われる。ナチス攻略のために最も重要なルートが実はブラジルにあった。北東伯ナタルは大西洋戦略上の決定的な位置を占めていた。

1943年1月にレシフェ沖に浮かべた米国戦艦で開催された首脳会談。前列左から2人目がヴァルガス大統領、3人目がルーズベルト米大統領(National Museum of the U.S. Navy, Public domain, via Wikimedia Commons)

 だが、それをするためにはブラジルが国内に米国空軍基地を設置することを許可しなければならない。
 そのために1943年1月にナタル港に係留した米駆逐艦(USSフンボルト)で開催された首脳会談「ポテンギ会議」で、ヴァルガス大統領がルーズベルト米大統領と話し合って、ナタル地域に米空軍基地、海軍基地を使わせる利用許可を決めた。
 ここから、米国の欧州戦線での作戦が本格化することになる。ブラジルはこのとき欧州戦線への参戦を決めたが、兵力以前に米軍への基地利用を許したことの影響は大きかった。

 

親ナチス/ムッソリーニだったヴァルガス

 米国に押し切られる流れの中で、国内でのドイツ系・イタリア系・日系コミュニティへの締め付けが厳しくなり、軍事要衝である港湾部からの立退きが行われた。
 だが1941年1月以前、ウィキペディア「Natizumo no Brasil」項によれば、ヴァルガスは独裁政権同士、イタリアのファシズムやドイツのナチズムに強い共感を持っていた。特にドイツとの輸出入は国家運営の柱になっていた。
 だから1938年までの10年間、ヴァルガスは国内でのナチス党の活動を容認し、ヒトラーと手紙のやり取りをして交流を温めた。米国のごり押し外交によって、1942年1月にブラジルが枢軸国との国交断絶をするまで、極力中立を保とうとした。
 同項には《経済面を重視したゼッツリオ・ヴァルガスは米国への接近を選んだ。そのためには、それまでの最大の交易国だったナチス・ドイツとの外交断絶をする必要があった。ヴァルガス自身、アドルフ・ヒトラーの礼讃者であり、自分の独裁者としての有り方にはファシズムからの明らかなインスピレーションがあった》とある。
 それどころか同項には次のような驚くべき記述まである。
 《作家で外交官のセルジオ・コレア・ダ・コスタによれば、ドイツ・ナチスは南伯を分割し、新しいドイツを作ることを計画していた。この計画は、新しいものではなく、以前からあったものだ。1911年にライプツィヒで出版された『Gross Deutschland, die Arbeit des 20. Jahrhunderts』(偉大なるドイツ、20世紀の作品)でタンネンベルグ(著者)は、覇権国間で中南米を再分割し、その太平洋岸の亜熱帯地帯をドイツにとっておく基本方針を打ち出している。
 「アメリカ大陸南部におけるドイツは温帯に属し、その植民地では、我々の入植者たちは自分たちの言語を継承する。ドイツ語は第2言語として学校で教えられることが求められる。ブラジル南部、パラグアイ、ウルグアイはドイツ文化の国々だ。そこではドイツ語は、国語となるだろう」とする。ダ・コスタは「ブラジルに新しいドイツを作る。そこでは必要な全ての物がある」というフレーズがヒトラーに影響を与えたと見ている》と書かれている。
 ドイツ帝国はアフリカ北部を制覇した後、ブラジルへも手を伸ばす可能性があり、その際には南部のドイツ系コミュニティが反乱を起こしてそれを助けることまで噂される状況だった。
 同ウィキペディアには《経済面を重視したゼッツリオ・ヴァルガスは米国への接近を選んだ》とあるが、実際には米国は武力で脅しをかけていたことが分かっている。
 米国は「それならノルデスチ(北東伯)を占領する」と脅した――とフォーリャ紙1998年2月22日付電子版エリオ・ガスパリのコラムに書かれている。それはベレンからリオまでの海岸線に10万人の兵力を動員して占領する大規模な作戦で「Pote de Ouro計画」とよばれていた。
 つまりブラジルが米国に軍事基地を使わせない場合、軍を送り込んで占領してナタル基地を使おうとしていた。
 万が一、ドイツ、イタリア、日本が手を回してブラジルを中立に保たせてナタル基地を使わせず、米国にブラジル侵攻させていたら大戦の戦局は大きく変わっていた。
 米国は欧州戦線に効率的に兵力を送れず、3方向に戦線を拡大せざるを得ず、大変な国力浪費と兵力分散をする必要があり、確かに「第2次大戦の結果が変わっていた」可能性がある。
 だが米国はムチだけでなく、ブラジルに飴として軍需物資の支援、製鉄所建設、大戦中の補給物資の輸出などを交換条件として出し、経済的な利益誘導をした。その結果、ヴァルガスはナタル基地の使用を許した。
 そんな米国から経済的な利益と引き替えに、ブラジル国内での枢軸国移民への弾圧はどんどん悪化していった。そんな世界大戦の行方を左右する局面の中で、7月にサントス強制立退き事件は起きた。

日本移民迫害への謝罪請求は進まず

2019年12月11日、連邦政府アネスチア委員会への謝罪請求行動(『群星』6/7巻247頁、右手前ナタリア・コスタ博士、奥エリアーネ・C・G・M・デ・ラニナ博士)

 サントス強制立退きを代表とする大戦前後の日本移民迫害を巡って、奥原マリオ純さん(三世)が、2015年12月に損害賠償を伴わない謝罪要求を法務省アネスチア委員会に起こした。これにはブラジル沖縄県人会が全会一致で支持を決めた。
 政府内でその審議が進まないことに業を煮やし、19年12月11日、上原ミウトン定雄会長(当時)、島袋栄喜元会長、宮城あきらブラジル沖縄県人移民塾代表は、奥原さんと共に首都ブラジリアに赴き、アネスチア委員会の担当弁護士2人に事情を説明して請願書を渡した。
 同文書には《あのサントス事件からすでに76年が経っておりますが、連邦政府は「スパイ通報」という無実の罪を着せられた私たちの先人たちに対し、今日に至るまで謝罪の言葉もなく、無言のままであります。連邦政府は、過去の幾多の困難を克服して、民主主義を標榜する新しい国家建設を目指している今日、過去の歴史を振り返り、汚名を着せられ差別的な人権抑圧を強いられてきた全ての日本人移民・沖縄県移民に対し、その名誉回復に真摯に向き合うべきことを切に思うのであります。
 私たちは、連邦政府が2度とあのような忌まわしい過ちを繰り返さないために、退去を命じられた沖縄県人移民を含むすべての日本人移民の名誉回復のために政府としての謝罪を強く願い訴えるものであります》と書かれている。
 島袋元会長によれば「普通は15分ぐらいしか面談しないと聞いていたのに、担当の女性弁護士二人は感動した面持ちで話を興味深そうに聞いてくれ、結局2時間も話し込んだ。ブラジリアまで行った甲斐があった」――そう手ごたえを感じた。だがそれ以来、何の反応もない。
 島袋元会長は「サントス強制退去の被害者は80歳以上の高齢者。どんどん亡くなっている。彼らが生きているうちに謝罪をしてもらい、名誉回復をしたい。今のうちに書き残さなくては。すでに亡くなった被害者への供養のためにも、ぜひ政府謝罪を実現しなければ」と拳を握りしめた。
 映画『オキナワ サントス』が、多少なりとも日本や欧米で話題となり、それがフィードバックされる形でブラジル国内での歴史見直し圧力になることを切に期待したい。(深)
◇公開予定:
▼7月31日(土)より【沖縄】 桜坂劇場にて先行上映、 
▼8月7日(土)より【東京】シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開