ホーム | 連載 | 2003年 | 五輪代表候補育てた二世=渋谷幕張高校サッカー部 宗像マルコス監督 | 五輪代表候補育てた二世=渋谷幕張高校サッカー部 宗像マルコス監督=連載(下)=闘莉王の祖母は泣いた=「この子が日本の教育受けられるなんて」

五輪代表候補育てた二世=渋谷幕張高校サッカー部 宗像マルコス監督=連載(下)=闘莉王の祖母は泣いた=「この子が日本の教育受けられるなんて」

12月25日(木)

 「負けた後にチームみんなで涙する。そんなアマチュアの純粋さが最高なんです」
 百七十六校が高いレベルで全国大会の切符を争う千葉県で、宗像マルコス望さん(四四)は渋谷幕張高校サッカー部の監督として、高校生の指導に情熱を傾ける。
 アマチュアサッカー指導への道――東洋工業で日本のサッカーに幻滅感を覚えつつあったマルコスさんだが、退社後に東海大学へ進学したのがきっかけだった。今でも師と仰ぐサッカー部の監督だった宇野勝さんと出会う。
 同大学で宇野さんの選手操縦法や指導技術に感銘を受けたマルコスさんは、自分も若い選手を育てたいと希望。二年間を同大学で過ごした後、休学中のサンパウロ大学(USP)を卒業するため、一九八四年にサンパウロに帰国する。
 帰国後、約一年半でUSPを無事卒業したマルコスさんに、八五年再び日本行きのチャンスが訪れる。
 今度は選手としてではなく、指導者の立場だった。
  ■  ■  ■
 「とりあえずボール蹴ってみて下さい」
 叔父の紹介で面接を受けた渋谷幕張は八三年創立の新設校。マルコスさんは八五年、同校に体育教師として採用される。面接では、リフティングも披露したが、USPの卒業資格も高く評価された。
 「いやーっ。最初は本当に苦労しましたよ」
 学校創立と同時に創部されたサッカー部監督に二十六歳で就任したマルコスさんは、まずチームの基盤作りを目指したが、約八十人の部員で練習に出てくるのはわずか二十人足らず。しかも部員の多くが不良だったという。
 「生活態度の悪い部員は、いくらうまくても試合に出さなかった。プロじゃなくてあくまでも部活だから」と当時を振り返るマルコスさん。
 そうした指導の厳しさはかつて所属したサンパウロFCの下部組織の監督から学んだものだ。
 約二十年間の指導歴では、闘莉王が高校三年生の時に選手権に初出場するなど計三回の全国大会出場を勝ち取っている。
 それでも一番心に残るチームは初めて地区大会を勝ち抜いてベスト三十二に残った就任三年目のチームだという。
  ■  ■  ■
 「闘莉王のお祖母さんと会ったとき、この人の孫なら大丈夫だと思いました」
 ブラジルからのサッカー留学生を加えるようになった渋谷幕張では、マルコスさんが自ら足を運んで選手を選んでいる。
 闘莉王を見いだしたのは九八年の初めだった。
 約三百人の中から一人を選び出すマルコスさんの着目点は(1)中学を出ているか(2)適応できそうか(3)家族の理解があるか――の三点だ。
 一世である闘莉王の祖母は「この子が日本の教育を受けられるなんて夢のよう」と涙を流して、マルコスさんに感謝したという。
 激戦区千葉だけに、闘莉王は三年生の時にしか全国大会に出場していないが、
国体には一年生から出場。当時から大きく注目を集めていた。
 「誰より先にグラウンド整備をするような生徒。グラウンドの中では彼が監督代わりだった」。闘莉王に手放しの賛辞を送るマルコスさん。
 マルコスさんの後を追うように、東洋工業を前身に持つサンフレッチェ広島に入団後、水戸ホーリーホックで活躍した闘莉王。帰化の相談を持ちかけるなど今でも師弟の関係は強固だ。
 日本に帰化した愛弟子は今、アテネ五輪代表候補として脚光を浴びる。
 「あの子には、いつもフェイジョン・コン・アロースのサッカー、着飾らないサッカーを見せれば大丈夫といっています」
 ブラジル人ならではのアドバイスだ。
 日系人が育てた「日の丸」プレーヤーがアテネで輝く日は近い。
(終わり、下薗昌記記者)

image_print

こちらの記事もどうぞ