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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(32)

地元日系社会の90年

 バンデイランテスには野村農場の創立とほぼ時を同じくして、日本人の入植が始まった。最初は1927年、山田末吉という福島県人が100アルケーレスという広さの土地を買った。当時の農業用区画は、普通、一家族当たり10アルケーレスであった。山田は笠戸丸移民でリベイロン・プレット地方のファゼンダ・ドゥモントに配耕され、騒動後、第二モンソン植民地に移り、さらに、ここに転じてきた。騒動とは、このファゼンダに配耕された笠戸丸移民たちが、稼ぎの少なさに怒りを爆発させて起こしたグレーベのことである。
 バンデイランテスには翌年から小さな入植地が次々できた。非日系の地主が私有地をロッテアメントし、日本人の土地売り業者が、サンパウロ州各地のファゼンダで働いている同胞に売って歩いた。入植地は幾つかでき、厚生植民地、幸運植民地、共栄植民地……などと名乗っていた。
 が、入植者は何れも10~30家族程度であった。1932年、バンデイランテスの日本人は87家族、596人(含、野村農場)を数えていた。
 戦時中は、ここの日系社会でも、険悪な事件が起きた。1942年7月、二人の日本人が警察に拘引された。内一人の農場で以前働いていたカマラーダが「二人が暴動を起こそうとして、北パラナの日本人に連絡をとり、焚きつけている」と警察に告発したのである。二人は9月の中頃まで留置されていた。結局、告発はデタラメと判り、釈放された。
 1944年6月、ある日本人が警察に「同胞から、死の脅迫を受けている」と訴えでた。彼は薄荷を栽培していたが、数日前の早朝、農場に放火された。火は消したが、現場に「薄荷を収穫したり、この事を警察に知らせたりすれば、家族全員の首を貰う」という脅迫状が残されていた。
 当時、サンパウロ州内各地で、繭や薄荷油の生産は利敵行為であるとして、その農場を襲撃する事件が頻発していた。繭や薄荷油は(日本が戦っている)米国に輸出され軍需物資になるという理由による。
 それが、このバンディランテスにも飛び火したのだ。警察は容疑者として17人の若者を拘引した。その中には15歳の少年もいた。ほかに彼らが属する秘密結社の幹部二人にも同じ措置をとった。彼らはクリチーバへ送られ、1945年8月末まで拘留されていた。
 筆者がバンデイランテスを訪れたのは、それから70年近く後になるわけだが、平和で小奇麗な町という印象だった。
 人口3万数千人、8割以上が町に住んでいるということであった。郊外にはカナ、大豆、ミーリョの農場が広がっていた。蔬菜類も栽培されているという。予め「バンデイランテスのことなら、上野憲治さんに聴くとよい」と人から勧められていたので、同氏を訪れた。会話中、筆者は上野さんを一世と思っていたが、後で1922年、ノロエステ線ピラジュイの生れであると知った。戦前に生まれ育った人は一世と変わらぬ人が多い。年齢も91歳であったわけだが、筆者は80歳くらいと見当をつけていた。
 上野さん一家はピラジュイの後、バウルーに移って棉の栽培をした。やがてバウルーの町でアルマゼンで働くようになった。(アルマゼンについては、前章で触れた)
 1945年、兄に呼ばれてバンデイランテスへ来て、その店で働いた。農産物の仲買商であった。ミーリョ、フェジョン、カフェーを扱っており、精選工場も操業していた。
 上野さんの話によるとバンデイランテスには、日系人は約200家族居り、町に住んでいるという。ただ、この数字は全くの概算である。血がドンドン混じり合って行くので、日系と非日系の区別がつきにくいのだ。職業も種々雑多で、特にこれといった特徴はない。
 カンバラーと同じで、殆どが農業から離れており、かつての植民地はすべて消えている。営農を続けている人も町に住んでの通い農業である。止めた人は土地をエタノール工場に貸している。カナの栽培用である。日本へ出稼ぎに行っている人も多い。

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