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サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(2)=功労者,重枝正美さん 初期の経営に尽力

12月16日(木)

 「え、今日も刺身ですか?」。
 運営が軌道に乗るまで、サントス厚生ホームの台所事情はかなり厳しく関係者は頭を痛めた。開所(一九七四年)間もなく、そんな贅沢な抗議が出されたことがあった。
 施設から三十メートル足らずの距離に日伯食堂が営業中で、主人の故重枝正美がちょくちょく鮮魚を譲っていたからだ。
 「赤字経営に苦しんでいたけど、食事だけは豪華でした」と、関係者は口を揃えて感謝する。記念誌編纂に当たって経営委員会(青木実委員長)に功労者を尋ねると、真っ先に重枝の名が挙がった。
 大正十一年(一九二二年)、山口県出身。五九年に親戚の呼び寄せで妻フジコ(80)と四人の子供を連れて移住し、サンベルナルド・ド・カンポ市の瑞穂植民地に入った。
 養鶏で生計を立てていたが、その後サントス市に移り食堂を始めた。旧南米銀行や旧コチア産業組合中央会が近くで支店を構え、昼食時になると職員たちが暖簾をくぐってきた。ホーム関係者もサンパウロから移転後、店に通い始めた。
 「赤字が続いて、経営が苦しいんです」。
 重枝の耳に、日々の苦労話が入るようになった。入所者自身が箸や桃の袋張りをして経費の捻出に奮闘していることを知り、協力を買って出たという。
 小畑博昭(援協元事務局長、75、宮城県出身)は「仁義のある人で、我が家のように愛情を注いでくれました」と在りし日の姿を忍ぶ。
 仕事柄、漁船の船長や魚屋の主人などと懇意にしており、重枝は漁業関係者から売れ残った魚介類を分けてもらった。当時はサントスでの水揚げ量も多く、日本人の網元も活躍していたそう。
 遠藤浩(経営副委員長、サントス日本人会会長)は「今は、漁業が不振で鮮魚の寄贈は減ってしまいました」。経営委員の松原かほるは「昔は、フェスタをすれば、とても大きいマグロを持ってきてくれる人もいました」と往時の勢いを懐かしむ。
 老人ホームとはいうものの、入居者平均年齢はまだ六十代前半で、現在よりもぐんと若かった。重枝は、労働意欲のある入所者を雇用。施設と地域社会との橋渡し役も担った。
 本部は八二年に、地元在住者の中から経営委員長を選出することを決めた。重枝が就任することに、異論を挟む余地はなかった。フジコもイベントで料理の腕を振るうなどして、内助の功を尽くした。
 重枝は七七年から援協理事、八三年~九六年まで常任理事を務めた。「皆さんのご協力があったからこそ、出来たことなんです」と、フジコは謙虚に語る。足が弱って二〇〇一年の暮れには寝たきりになり、翌〇二年三月十五日に死去した。その二カ月後の五月、日伯食堂も暖簾を下すことになった。(敬称略、つづく)