12月17日(金)
会員獲得のために、日本語教室を──。
サントス厚生ホームの開所当時、入所者の多くは経費を支払えない困窮者だった。労働可能な人によっては、外部に就職先を見つけ運営を手助けしていた。木村捨三(故人)は、施設に子供を集めて日本語を教えた。
授業料は無料。ただし父兄会を組織し、保護者には援協に入会してもらった。約六十人の生徒が週に三日、通ってきたという。教室は、高齢者と地域の子供たちの交流の場でもあった。
木村夫婦には子供がなく、サンパウロの援協厚生ホームに終の棲家を求めた。入居第三号だった。もともと奥地で日本語教師をしており、入居後も日伯文化連盟のサンジョアキン校(サンパウロ市リベルダーデ区)で雑用をするなどして収入を得ていた。
援協厚生ホームは七四年に、サントス厚生ホームとして再出発。それに伴って、入所者約三十人は海岸山脈を下った。木村に大きな仕事が待ち受けていた。
サントス日本人小学校は太平洋戦争中の四三年に敵性資産として校舎を接収され、現地日本人会が戦後返還運動に躍起になっていた。会館がない上に適当な教員が見つからず、七四年ごろ日本語学校が中断していたのだ。
旧コチア産業組合中央会、旧南米銀行、旧南伯農業協同組合中央会などの支店が旧市街地に集中。日系子弟の数もかなりの数に上ったみられる。私塾が数校営業していたものの、需要を満たせる規模ではなかった。
「施設側は厳しい運営を迫られ、少しでも収入を伸ばしたい」。木村と地域の利害完全に一致したわけだ。
「温厚で信仰のあつい人」。『サントス厚生ホーム拾年の歩み』には、木村がかなりの人格者だったと記されている。
入所者の中ではリーダーのような存在で、事務や管理仕事を積極的に手伝ったほか、楽団を結成するなど娯楽づくりにも奔走した。
多くの子供たちが、その人柄を慕い薫陶を受けた。開所一年目に金婚式を迎えたおり、かつての教え子たちが謝恩会を企画。教師冥利につきたそうだ。
木村はサントスに移って、三、四年後に亡くなった。妻はその後も施設に留まり、夫の遺志を引き継いで音楽療法の助手やトイレ掃除などに精を出した。実は、この女性はある芸術大学(京都府)の学長の娘で、夫の死後、遺骨は日本の親族に身元引き受けされて帰国した。(敬称略、つづく)