2005年12月16日(金)
「円売り」問題は一九四七、四八年頃、パ紙が追究していたが、途中で打ち切っている。
小生の親友清谷益次氏(本紙歌壇選者)がパ紙の記者をしていたので、会社に遊びに行っており木村義臣、斎藤広志、増田健二(増田秀一は五二年頃入社した)、そしてポ語欄を担当していた下元アントニオたちと知り合い、午後四時には新聞社の向かいのバールでカフェーを飲みながらコロニアに起こる事件を取り上げ、論議していたものだ。
途中でその連載を打ち切ってしまったことに不審を抱き、清谷氏にその理由を尋ねたら、次のような理由を述べた。
つまり、大量の円の出所を追究すると、銀行が第一番に浮かんでくる。当時あった日系銀行はリオの横浜正金とサンパウロの東山だが、斎藤氏がいろいろルートを辿った結果、東山銀に行き着いた。が山本喜誉司はすでにコロニアの指導者として先頭に立つ人であり、敗戦認識運動グループの一人である。
山本氏を犯人するわけにはいかないし、犯人とは考えられない。最後の一線が不明であり、解明するには大きな危険をはらんでいる。そういうわけで放棄したという。
大量の円が流出したとなればさっきいったように銀行が一番先に浮かんでくるが一つ疑問が生じた。それは、ブラジルが米国の要請に応じて世界大戦に参加するや、ただちに枢軸国民の企業、大規模な商店の管理をしたからだ。電光石火のような処置であったので銀行ではもし大量の円があるとしても持ち出すことが出来たかどうか疑問が生じる。
ふと小生は先輩であり親友である徳尾恒寿(渓舟)兄の伝記の大略を書くために、彼の日記を一九二七年から四五年まで目を通した。そのとき複写もした。 徳尾兄は東山銀行の出納係兼カイシャをしていたので、円の問題ついて考えていたら、日記の複写にいくらかその辺の事情が書いてあるかもしれないと考え、帳面をめくりながら、管理下にあった銀行の様相を書き抜いてみた。
◎一九四二年一月七日 今日から監督が二人来て現金出入を厳重に制限し出した。売買があがったりで困ったものだ。
◎一九四二年三月十二日地中海でブラジル船がドイツの潜水艦に砲撃された。早速、枢軸国民の銀行預金の一部を代償金として取り上げる法令が発布された。枢軸国民の預金の一部没収令に従って、東山銀行は一千コントをブラジル銀行に納める。
◎一九四三年四月一日 昨日の新聞によると、東山に政府からアドミニストラドールが任命されてくることになっている。
◎一九四三年四月七日 東山の店の方へも連邦政府信任のアドミニストラドールとほかにセクレタリア三人が入ってきた。
◎一九四三年四月十二日 新しいアドミニストラドールが入ってから店則がかなり厳重になってきた。今日はシャーベを全部取り上げられる。カイシャの現金をきびしく調べている。
◎一九四三年四月十九日 新アドミニストラドールが専門会計事務所を動員してカーザ東山のバランソを調べている。
◎一九四四年三月三十一日 みんな山本総支配人(喜誉志)についていろいろ噂したり、意見をいったりしている。どうでもよい噂よりも悪い噂のほうが多い。だが自分に対しては非常によく目をかけてくれるので、悪い噂は信じない。現に先日「自分の力になるべく、最後までがんばって努力してくれ」といわれたばかりだ。
一九四四年十月十九日 きょう退職金を貰った。十一コント七百ミルある。これが六年間働いた結晶だ。
この記述における限り円は銀行から流出する機会はないようだ。もし東山の頭取の誰かが時の状況を敏感に感じ取り、政府が介入する前に流出しておいた、と言うことも考えられるが、実際となるとどうだろうか。なかなか判断しかねる。(つづく)