ニッケイ新聞 2008年10月23日付け
強行軍が続いた今回の旅行で唯一、午前はゆっくり、午後の出発となる最終日前日。それまでは温泉リゾートで楽しもうという趣向だ。
しかし、連日の早起きに体が慣れたのか、六時前には目が覚めた。すると、同室の長友団長が起き出し、洗面所に入るのが見えた。
団長も七十一歳。用を足しに起きたのだろう。記者はカーテンから差し込む淡い朝日のなかでまどろんだ。
再度、目覚ましを見ると午前八時半。長友団長はいない。朝食にでも行ったかなーと思いつつ、暑くなるまえに朝風呂を楽しもうと起き出すと、トイレに人の気配。すると、長友団長が浮かない顔をして出てきた。
聞けば、大小の通じがないらしく、「病院に行こうかな…」と深刻そうな表情を見せる。入れるのに出ないとは、確かに心配だ。
今までの県連ふるさと巡りでは、アラサツーバから緊急に一人がサンパウロに帰った例がある以外、無事故で送ってきたが、旅の終盤で団長が病院行きとは…。ピンチである。
その時、部屋の電話が鳴った。すでにまたトイレに籠城、フン闘を続ける長友団長を探すガイドのエリオ氏だ。
「リンスの会長さんたちが訪ねて来られているのですが…」
◎
「いやあ~、皆さんが来られていると聞きまして、ご挨拶だけでもと思い、着の身着のままでやって参りました!」
安永忠邦さん(87、二世)、リンス慈善文化体育協会の会長を務める息子の和教さん(63、三世)、昨日、上塚公園を案内してくれたルイスさん(71、二世)が満面の笑みでホテルのロビーに立っていた。
エリオ氏によれば、日程上、リンス、プロミッソンでの交流は計画しなかったという。
しかし、大和魂を継承する安永ファミリーにとっては、百十七人もの日本人が来ているのを、黙って見過ごす訳にはいかないのである。
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「一つになったところで、あの世に行きたかった」―。
忠邦さんには、百周年に対する切ない思いがあった。二百家族が住むプロミッソンには、プロミッソン日伯文化体育協会とプロミッソン日伯文化協会がある。
上塚の住んでいた土地をブラジル人に売った日本人を中心とするグループと、反目するグループのいざこざが勝ち負け問題と複雑に絡み、現在の状態のまま続いているのだという。千二百家族が住み、二十二の日本人学校があった頃の話だ。
「その歴史自体をもうみんな知らないし、両方に入っている会員が半数以上。だから、百周年を機に一緒に、と思っていたのですが、とうとう出来ませんでした」と残念そうな表情の和教さん。
「でも、市も協力してくれ、百周年の委員会を一緒にやっていますし、上塚公園に立てた鳥居のイナウグラソンも十一月にやります。まあ、徐々に一緒になれば」。
終戦の年に生まれ、「和を教える」という願いで命名したという息子を頼もしく見遣りながら、忠邦さんは、「上塚先生は私の手を握って、『プロミッソンのために頑張ってくれ』と言われました。私は生まれてこの方、八十七年間、この地におります。皆さんが上塚先生を慕い、訪れてくれるのが何よりも幸せ」と笑顔を見せた。
安永さんたちは、昼食を一行と共にし、午後三時にホテルを出発するバスを直立不動で見送ってくれた。
実直さを絵に描いたようなその姿に記者も襟を正していると、長友団長が、「いやあ、何とかなりました。しかし、あの安永さんという人は最後まで見送ってくれて真面目な人ですねえ」と朝とは打って変わって爽快な表情を見せた。
ポンペイアに向かう景色のなか、記者は静かに瞑目した。
(つづく、堀江剛史記者)
写真=プロミッソンの生き字引、安永忠邦さん