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《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第7回=過酷な海岸開拓の前線へ=掘っ立て小屋が「本部」

ニッケイ新聞 2013年2月8日

 坂和は56年中頃から1年ほど山崎家に下宿し、アクリマソン区のブラジル人住宅に移った。そのあとに入ったのが坂尾英矩(ブラジル音楽評論家)だ。55年当時で山崎は53歳、アインは30歳、宮尾25歳、坂尾24歳、坂和21歳だった。
 坂尾は珍しく山崎本人とも親しく付き合った。ブラジル音楽や歴史の裏話を記した著書『情熱のリオ』(08年、中央アート出版社)の中に、特別に「山崎釼二代議士の最後」との一節をもうけ、山崎から開墾地の状況を見学がてら撮影してくれないかと頼まれて開拓地まで行った体験談を記した。
 サントスから旧式の汽車で海岸沿いに70キロほど南下し、ペルイベの漁村で舟に乗って海からウナ川河口を溯っていくのが、当時その開拓地に近づく唯一の交通路だった。
 ところがその時は、海が荒れて河口に近づけず、船頭が「当分、舟を出せない」と宣言した。山崎は坂尾に「歩いていこう」と提案し、さっそくスタスタと歩き始めた。山崎にとっては何度も通った道なのだろう。
 坂尾はその時のことをこう記す。《街から一山越した耕地までは道があったが、そこから先は、ジャングルの中を目印に従って抜けて行かなければならない。私は足に相当自信があるが、8時間も木の枝や蔦などを切り払って蛇を気にしながら森の中を進んできたら、もう両足が重くなって自分の身体の一部という感じが無くなってしまった。それでも山崎さんは黙々と進んで行く。若い者の方から休もうなどと言えた柄ではないので、私は気が遠くなりそうだった》(161頁)。
 親子ほどの年の差、体力を考えれば、当時の山崎の気合にはただならぬものがあった。居候、町工場を経て、「ようやく本来の仕事にありついた」——そんな気迫に溢れていたのだろう。
 《…川べりの開拓本部にやっとたどり着いたら夕暮れになっていた。開拓本部とは名ばかりの掘っ立て小屋で、まわりに自家用野菜が植えてあり、労働者は日本人5人、ブラジル人10人だった。(中略)翌日からは干し肉と油飯とトマトだけで便所も風呂も無く、濁った川の水を料理に使っていた。
 作業は原始林を切り開いて、そこに胡椒、マニラ麻、バナナなどを栽培する計画であった。もう一つは開拓地より州道まで道路をつなげることで、数百メートルも道幅だけ伐採されてあった。ガスも電気も無い所でラジオも聞けず、暗くなればピンガ酒を飲んで寝るだけの繰り返しは普通の人には耐えられる生活ではない。「気に入ったら何ヶ月いてもいいよ」と山崎さんは言ってくれたが、戦争中の苦労に慣れている私でも我慢できず、開拓状況を撮り終えると一週間で引き上げてしまった》(『情熱のリオ』162頁)
 50代半ばの元代議士は一介の戦後移民として、まさに過酷な開拓前線の真っ只中に身を晒していた。
 ちょうどその頃、57年9〜11月に元妻・藤原道子が移民問題担当の参議院議員として来伯し、連日邦字紙のトップを飾った。57年9月17日付けパ紙では、3年ぶりに会った息子・嶺一に生まれた初孫晴仁ちゃん(1)を抱く写真が掲載された。同紙主催で講演会が催され、麻州視察に記者をさせて連載するなど特別待遇で報じ続けた。
 自分の渡伯時には1行も書かなかったパ紙が、元妻の来伯をかくも盛大に報じる様子を、便所すらない開拓本部から、山崎はどんな思いで見ていたのか…。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=ペルイベの開拓地に向かう途上(手前から坂尾、船頭、釼二、1957年頃、坂尾所蔵)