ニッケイ新聞 2013年8月28日
加藤幸平も否定
地方で事件が続発中、オールデン・ポリチカは、認識派に対する襲撃実行者(逮捕者)の内、臣道連盟と関係がありそうな人間は、サンパウロへ移送して取調べを行っていた。
1946年8月、ツッパンで派手な一人一殺事件を起こした加藤幸平たち3人も、そうした。加藤の父親が臣連の支部長か何かをしていたという。
事件と臣連の関係が明らかになれば、そのまま起訴に持ち込む腹であった。(臣連関係の裁判は、一括して、サンパウロで行っていた)
が、結局、ツッパンへ送り返している。目論見は外れたのである。
加藤は、それまで、かなり長期間、カーザ・デ・デテンソン(未決囚拘置所)に居った。その折、押岩嵩雄と会っている。押岩によると、加藤は「自分たちは連盟員ではなく、決行も臣連とは関係ない」と話していたという。決行とは襲撃のことである。
なお、筆者は最近、サンパウロで、この加藤幸平の夫人と会う機会を得た。夫人は80代半ばになっていた。加藤は1978年に病死したという。 彼女が結婚したのは、加藤が刑務所から仮出所した後であったが、事件のことは、加藤とソグロ(その父親)から詳しく聞いたそうである。
それによると、ソグロは臣連の連盟員であったが、加藤自身は連盟員ではなかった。 ソグロは「我々が獄中に居る間に、若い者が勝手に暴走してしまった」と話していた。「我々」とは臣連の幹部たち、「獄中に居る」とは拘引され拘置中、の意である。
ある老人の話
ところで、ツッパンの臣道連盟で青年部の指導をしていたという人物が、2004年現在、同市に生存していた。(この人は、本稿で、すでに一寸登場している)
筆者は2度、その自宅を訪ねて、話を聴いた。山内房俊という名で、90歳であった。至極達者そうであったが、3度目の訪問をしようとして、電話をすると、故人になっていた。 山内老は、親しみを持てる人柄であった。ただ、きつい気性のようであった。筆者が話を聞いた時点でも──ということは、連続襲撃事件から58年後ということになるが──認識派を「ハイセン」と、声に敵意を込めて表現していた。当時、自分でつくったという日本刀を取り出して見せ「最後は、これで戦って死ぬつもりだった」と、白刃を抜いて、筆者に見せた。刀身がひどく長かった。 事件当時は、30歳を幾つか越していた。四月一日事件の直後、警察の狩込みで(臣連支部の役員をしていた)父親の山内健次郎と共に拘引され、サンパウロのオールデン・ポリチカに送られた。 この老人、誇らし気に、筆者に、こう言ったものである。 「ツッパンの臣道連盟の青年部から、決行者が出た」 認識派への襲撃者が出たことを、悪いことであったとは全く思っていない様子であった。
決行者とは、日高徳一や(コチアの下元健吉を狙った)上崎孝一、水島功のことであろう。いずれも、臣連とは関係なく、行動している。 老人は、さらに、残念そうに、こう続けた。
「アレが半年先だったら、ワシも行っていたナ……」 アレとは前記の拘引、行っていたとは襲撃に……の意味である。(山内は拘引後、長く拘置された)
こういう人なら、事件と臣連の関係について、真相を知っているかもしれない、少なくとも地方に於けるそれは……と期待して訊いてみた。老人は、こう答えた。
「臣道連盟の組織的・計画的なモノではなかったナ……」
地方支部の青年部の指導者で、その部から、襲撃の実行者が出たことを誇り、自分も同じ行動をとりたかった、と正直に話している人が、こう言ったのである。
事件と臣連の関係を考える上で、貴重な証言であった。 (つづく)