ニッケイ新聞 2013年9月24日
レジストロには1919(大正8)年にまず中央小学校(後に第3部)が開設され、その後、第2部、第4部、第5部、市街地と、合い前後して計5校ができた。最初は日本語だけだったが、ブラジル政府から教師を派遣してもらい、日伯両語で教授をはじめた。
第5部小学校の校長の仁戸田庸吉郎(にえだ・ようきちろう)は元陸軍大尉だけに厳しさに定評があった。その教え子、1928(昭和3)年7月にレジストロで生まれた小野一生(かずお、84、二世)は、「仁戸田先生は明治の日本人。そして軍人だったからとにかく厳しかった。でもあの人のおかげで5部の子供はしっかり教育された。僕自身は学校に行かなかったけど、姉が通っていた。でも新年会でお年玉をもらった記憶ある」と懐かしそうに思い出す。
そして第五部小学校の校歌(作詞=仁戸田庸吉郎)を見せた。
《市街遠く隔たりて 交通不便を免れず 土地もさ程に肥えおらず これが我が部(ぶ)の不足なり されど憂ふな愛し子よ 艱難汝を玉(たま)にする》(3番)
《海外発展使命負い 祖国離れて一万里 ブラジル(ここ)に定住せる上は 朝(あした)に母国の徳慕(した)い 夕べにブラジル(ここ)の恩忍び 学びの道にも勤しまん》(5番)
戦前の雰囲気が漂う歌詞だ。植民地は1部から5部まで順々に配耕されたから5部が一番遠い。いい場所から配耕したと思われ、一番土地も肥沃ではなかった様子が校歌に歌いこまれている。
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1922(大正12)年に第4部小学校が開校し、第3代校長が赤間重次(じゅうじ)だった。後の赤間学院の創立者、赤間重次・みちへ夫妻はレジストロで過ごした経験から、後にサンパウロ市で女学校を開校した。
みちへは1922年に東京裁縫学校高等科を卒業し、府立師範学校を出た才媛だ。1924年から東京女子職業学校(現東北生活文化大学=三島学園が経営)で5年余り教鞭を取り、夫重次の「ブラジルで水産業をしたい」という願いを叶えるために1930年に渡伯した。
『先駆者伝』(494頁)には、《ノロエステ線カフェランジア駅セルボン耕地に入耕、次いで聖南レジストロ市植民地に移り、重次氏は日語小学校教師に就職す》とある。みちえは赤間学院のビデオの中で「私は来たくなかった。最初の10年間は泣いて暮らしたようなものです」との告白している。夫の強い願いで来伯したが重次は39年に亡くなり、そののち女手一つで学院を現在の姿に育て上げた。
本紙98年3月20日付け記事にも、学院を始めたきっかけは夫がレジストロで日本語教師を務めた1年半にあったとある。《その間、植民地の生活を見るにつけ、ことに娘たちは早朝から夜遅くまで汗みどろになって働いている。この娘たちはお嫁に行くまで何を習うのだろうか。このままでは娘たちが可哀想だ。赤間夫妻は夜な夜な何かよい方法はないかと考えているうちにこれはやれそうだと言う結論を出した。その案というのは赤間院長(みちへ)が三島学院で五年間教えた裁縫を中心に日本的教育をすることであった》とある。
その経験が活かされ、1933年9月、リベルダーデ区にサンパウロ裁縫女学校を創立した。《各植民地ではこれを有り難い学校と評判になりぞくぞくと生徒が集まった。最初の頃はレジストロ出身が多かった》という。《学び舎(や)に嵐吹きまく外つ國に 強く咲かせんやまと撫子》というみちえの短歌は、排日機運が高まる中で日本人女子を正しく育てようとした気概が現れている。
みちえのたっての願いで、仙台が誇る詩人・土居晩翠が赤間学院の校歌を作った。《東海遠き大大和、國の尊き魂を、ここ南米の空のもと、移し植えたるサンパウロ、聖なる美なるサンパウロ》。夫妻の心の中では〃レジストロ〃と置き換えられて歌われていたかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)