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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (51)=草分け時代の痛快な青年ら=名門子弟の〃大陸流し〃

ニッケイ新聞 2013年9月21日

原始林を切り開いて米作をする当時の農家の様子

原始林を切り開いて米作をする当時の農家の様子(『在同胞活動実況写真長』竹下写真館、1938年)

 米作不振からサトウキビにも手を伸ばそうと、1921年に海興は担当者を社費でペルナンブッコ州に派遣して実況視察させ、組合員の連帯責任で圧搾機を購入して植民地全体で作るよう指導したうまくいかなかった。
 《折角製造された砂糖も単に粗糖で、市場との取引は不可能で、会社が市街地に精糖工場を造って、これ等の粗糖を原料にして精糖工場に提供する仕組みにした。しかし甘藷栽培はあの痩せ地には不適で、これ又予期の成績が挙がらず、結局甘藷圧搾機はその支払いにも窮し、組合員の首をしめるギロチンの様な観があった。又、巨費を投じて設立した精糖工場も僅か一〜二年の後には原料の粗糖を提供する者がなくなって作業を中止して、ペンペン草が生える様な状態になった》(野村『思い出』45頁)
 1923年頃にはほんの一時期だが珈琲黄金時代が出現し、会社も珈琲試験所を設け、珈琲植え付けを奨励した。《しかし雨量の多きため樹の発育は美事であったが、採取と乾燥には多大の困難が伴い大量栽培には適せず、特に湿気の多きため品質劣等で、市場での売れ行き香ばしからず、植民者の一部で小規模の栽培が行われる程度で、植民地の更正には程遠いものであった》(野村『思い出』46頁)。
 海興は当時、農業試験場を設け、あらゆる農作物を試した。ユーカリ樹、カスターニャから畜産にも力を入れた。そんな流れの中で農業技師・野村隆輔を中心に畜産研究センターが1927年に設立された。《当時としては最高の設備を備えた画期的なものだった。このセンターは牧草地百七十ヘクタールおよびボア・ビスタと呼ばれた地域に五百三十ヘクタールの牧場を設け、センター内にはリングイッサはじめ、加工品を製造する工場も作られ、創設された1927年の十一、十二の両月ですでに九千ミルレースの利益をもたらしている》(日毎紙71年1月8日付け)
 この種蓄牧場には独特な独身青年十数人が集まっていた。便宜上、構成家族としてきたが青年の中には《日本の上流家庭の子弟や高等教育を受けたものが島流しの意味で紹介状持参で転げ込んで来た者もあり、真面目な青年も居れば、品行悄々楕円形の青年もあり、玉石混交と云う状態であった》(野村『思い出』18頁)。品行〃方正〃ならぬ〃楕円形〃という表現に当時のユーモア感覚がよく出ている。
 この〃島流し〃組の一人には田辺定がおり、《開成中学その他諸学校の経営者田辺道之助氏の令息で、田辺元博士、洋画家田辺至氏の令弟で、星野立子女史、大仏次郎、谷崎精二諸文士は鎌倉時代の幼友達で名門の出であるのに何んのために渡伯したか知らぬが〜》(野村『思い出』20頁)などの人物もいた。
 種蓄牧場の青年らは〃女人禁制の高野山〃とか〃白束組〃(江戸の町奴)と呼ばれ、植民地で悪戯をしては気勢を挙げていた。白束隊のリーダーは台湾抜刀隊の生き残りの大坪治助もおり、一杯気分で本部社宅に深夜ストームをかけたり、まるで旧制高校のような状態であった。
 《青年の中には信州人が多く、ゲテモノに対する賞玩性に富んでおり、悪戯半分に悪食を流行させた。犬猫は云うに及ばず蛇、蛙に至る迄、ありとあらゆる生あるものは片っ端から処分された。ワニやトカゲは上等のご馳走の部になって居た》(野村『思い出』18頁)。例えば「七面鳥の試食会」という触れ込みで植民者を招待し、沼鰻、ヤマアラシ、タツウなどの闇汁を作って振舞ったという(野村『思い出』19頁)。
 しかし、日本という島国から南米に〃大陸流し〃された名門子弟らだけに、ただの悪戯ボウズではなかった。実は《種蓄場の青年と云えば植民者から信用されており、いざ仕事となると皆別人の様に真剣になって責務を全う〜》(野村『思い出』19頁)とある。まさに信州の旧制高校のバンカラな気風が若者のあいだに漂っていた。(つづく、深沢正雪記者)

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