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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (43)=「教育県から移民県へ」=信州から続々と草分け

ニッケイ新聞 2013年9月11日

第1植民団の一人、松村栄治(1894—1988)の息子の昌和

第1植民団の一人、松村栄治(1894—1988)の息子の昌和

 「父は最初から永住するつもりできた」。1917年のレジストロ第1植民団の一人、松村栄治(1894—1988)を父に持つのが、昌和(91、二世)=3月11日取材=だ。1921年12月に同地で生まれて、今もそこに住む最古参だ。父栄治は23歳の頃、長野で記者をし、衆議院議員に出馬した降旗元太郎(信濃日報社長)の支援などもした闊達な人物だった。銃剣術を鍛錬し、渡伯する時も竹刀を持ってきてこちらで教えていた。
 「日本で海興は『イグアッペは有名な、上等な米ができる産地』だと盛んに宣伝していました」。そう言われれば、米作りに誇りを感じるものなら心を惹かれる殺し文句だった。
 父が尊敬していた長野県の県視学だった中村国穂が、地元の学校講堂に全校生徒を集めてブラジル事情の講演を行い、「若者が活躍するにはに出るべきだ」と説いていたという。イグアッペ植民への入植者を募集し、「信州は教育県から移民県になるのだ」と講演して回っていた。父は中村に関して《先生は最初大勢の家族を送り出して後、自分もブラジルへ渡航して信濃村をつくり、村長になるのだと云って宣伝して居り、事実其の腹で居られたが、遂に病魔の冒す処となり、実現出来なかった事は残念であった》(『日々新た』99頁)と書いた。最初、父はフィリピンで麻栽培をしに行く計画だったが、25町歩もの土地が手に入るという中村の話を聞いて伯国行きに変えた。
 後に「アリアンサ移住地の父」と呼ばれる北原地価造(1894—1969、長野)と栄治は共に長野出身で、渡伯前からの知り合いで、同船で来るかと思われたが、結局、北原は一航海後のタコマ丸だった。
 なぜ次々に信州人がイグアッペに殺到したかに関して、北原の次の言葉が簡潔に言い当てている。ふるさと更級郡で農業技師をしていた北原は《更級郡の耕作面積を、真ッ四角の図となし、全郡の農民をその周囲に立たせると、一米突に一人と云うことになると説明し、これでは更級郡の農民は食うて行けませんと発表し、教育会の海外発展主義の教育を支持した》(『日々新た』230頁)とある。
 北原は「家族労働力3人」という条件に合わせて妻と構成家族の養子を募集するために信濃毎日新聞の「ハガキ便」欄に投稿した。その結果、北安曇郡の村長の娘が妻に立候補し、養子には石川文夫(のりお)が名乗り出た。後に日伯産業組合中央会で活躍し、1948年ごろには一時パウリスタ新聞の経営にもあたった、あの石川だ。
 「上等な米」という宣伝文句に乗せられてきたが、昌和は「ブラジルと日本ではコメ作りが全然違うんです。だって原始林を切り倒して、焼き払って、畑を作っても、あとどうしていいか分からないんです」とし、現実は日伯の違いに途方にくれる日々だったという。
 昌和は「確かに米はとれた。でも、みんな米作るからここじゃ売れない。レジストロには最初、精米所がなかった。わざわざイグアッペの精米所におくって精米してから、レジストロに戻し、そこからサントスに出荷した。つまり、いくら米を作っても作っても運賃だけ嵩んで、とんでもない経費がかかり、利益がでない訳ですよ」。初期の開拓者はそのよう計画間違い、設備不足に泣かされた。いくら米ができても土地代などの借金を返すことはできなかった。
 そして数年経つと…。「原始林を焼き払って米をるから最初は良いんだけど、すぐに地味がなくなって、4、5年待たないと次のが育たなくなる。あの頃は肥料とか使わない時代だった」。宣伝文句とは違う現実に直面する日々だった。(つづく、深沢正雪記者)

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