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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (35)=手を焼く伊系移民の実態=スト破りに日本人導入?

ニッケイ新聞 2013年8月30日

 桂植民地建設当時の政治社会情勢に関して、1914(大正3)年にブラジルを実地調査した伊東仙三郎は、興味深い分析を披露している。
 伯国為政者側の思惑としては、台頭甚だしいドイツ移民をこれ以上入れる危険性と、イタリア移民による労働運動激化に手を焼き、彼らと結託しないであろうスト破りに使える人材として日本移民を導入したとの分析だ。
 《南部二三州は獨逸人の来住に伴い実権は悉く彼等に移つた。即ち其組織的頭脳は事毎に実権を握り、僅在住四十萬の獨人の勢力は百萬以上の伊国民を凌駕するに至り、実業の実権は勿論政治上にも牢固抜くべからざる勢力を得るに至った。中央政府は勿論各州政府当局者は今更ながら他日事端を滋くするを恐れ且つ目下の成績に驚き、一種の牽制策として日露戦役を奇跡視する國人の好奇心を満足せしむる傍、聖州に日本人の移住を許可し尚欧州労働の同盟罷業(スト)に備へんと企てた。是れ実に渡航費大部の償還を約して迄も、我日本人の移入を契約した所以であった》『ブラジル移植民の真相』(伊東仙三郎、1915年、高踏書房、31)
 と同時に日本移民に関しても、南部のドイツ移民が強固な民族性を継承したことの二の舞を避けようという意識が、中央政府にはすでに働いていたに違いない。そんな意識の最前線にレジストロ地方はあった。
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 1861年にイタリアが統一され、爆発的に人口が増加して1870年代から新大陸への大移住が始まり、半世紀の間に150万人もが聖州を中心に渡伯した。
 当地では経済の中心地が、奴隷制度に立脚した素朴な砂糖産業中心の「北東伯の海岸部」から、外国移民を労働力とするコーヒー産業の中心地たる「ミナス州から聖州内陸部」に移る近代化黎明期だった。
 砂糖産業時代には〃砂糖貴族〃と無数の奴隷しかおらず、効率化とは縁遠い世界だったが、コーヒー産業には工業化が不可欠だった。農園内には外国移民を軸とした近代的な労使関係が生まれ、聖市には外国人農園労働者が必要とする衣服、生活用品や製造する工場労働者などの中産階級が育ちつつあった。
 祖国で労働闘争を経験していた伊移民たちは、1888年に奴隷解放したばかりの当地の前近代的な現実に接し、強く抵抗をして祖国政府に窮状を訴えた。その結果1902年にイタリアは伯国行き契約移民渡航を禁じる処置にでた。奴隷待遇の珈琲園労働には大半の外国人移民は数年間しかもたず、どんどん入れ替った。渡航中止になった伊移民は聖市周辺の工場に移ったため、渡航禁止5年後、聖州の珈琲農場は大変な人手不足に陥っていた。
 だから水野龍は1907年に移民契約に成功し、これが日本移民導入のきっかけとなった。
 聖市に出てきたイタリア移民はここでも前近代的な労働条件に遭遇し、ストで抵抗をはじた。1900年頃の聖市工場労働者の8割が伊移民だったという。13時間労働は当たり前で子供まで働かせた。盛んにイタリア語で新聞を発行し、労働組合運動やアナーキーズム、社会主義を広めた。彼らやスペイン系を中心した組合運動から1917年には伯国初のゼネストにまで発展した。
 発端は一人の労働者に死だ。聖市ブラス区の工場前で抗議行動をしていた一群に騎兵隊が突入し、スペイン人ジョゼ・マルチネスが死亡した。3日後には市内で7万人の労働者が共鳴してストに突入し、路上電車を焼き討ちし、商店や倉庫を略奪した。今でも左派系政治家に伊系が多いのは、この時代の名残だ。
 このゼネストの記録は日本移民史上にはほぼ残っていない。日本移民は伊移民が抜けた穴を補うために地方の珈琲農園にいたからだ。(つづく、深沢正雪記者)

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