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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (81)=「南聖の郷土を救う紅茶革命」=大英帝国の裏かき種持ち出し

ニッケイ新聞 2013年11月30日

岡本寅蔵と妻久江(『茶の花』1974年)

岡本寅蔵と妻久江(『茶の花』1974年)

 1930年革命で共和国臨時政府の大統領となったヴァルガスは、憲法を停止し、国産品の発展を図るために輸入品制限令を出した。その中にリプトン紅茶も入っていたことが思わぬ〃革命の置き土産〃をもたらした。
 岡本寅蔵が革命軍の将兵に紅茶を進呈すると、参謀らは喜んで軍内に宣伝してくれた。《南聖一帯に屯している兵士の愛用から一般人の申し込みに広がり、カマラーダ数人にうんと高給を払って昼夜兼行で製造しても申し込みの半分もできない始末だった。岡本氏は今こそレジストの人達に茶を植えて貰う絶好の機会が来た! とばかり、誰にも彼にも苗木を分けてやり、幾年もかかって苦心研究した紅茶の製法を皆に教えてやった。ゼツリオの革命はブラジルの政権の革命だけでなく、レジストロの辺境に産業革命の火の手を挙げ、郷土を救う大きな裏の革命ともなった》(『曠野の星』1954年、第22号、53頁)という具合に、ヴァルガスと共に〃紅茶革命〃も勃発した。
 岡本寅蔵は紅茶市場拡大の流れに身を任すだけでなく、積極的に品質向上を図った。茶の粗製濫造が目立つようになるのを心配し、1932年に日本から紅茶の機械と技師二人を招聘した。さらに本格的な紅茶を生産するためには、《リプトン紅茶に類似した製品を作らんとすれば原葉を代えなければならぬことに気がついた》(『茶の花』195頁)という困難が待ち構えていた。
 1934年に訪日したおり、帰伯の時にインドのセイロン島に二日間寄った。簡単に種は手に入ると気軽に考えての訪日だったが、現地に行くと、種の国外流出を恐れて国法で固く禁じている状況だった。
 1971年1月8日付け日伯毎日新聞によれば、《インド産の紅茶は一人イギリスの手に握られ、茶園および加工場はもとより、出入国に際しての税関の検閲は厳密をきわめ、種子一つぶはおろか砂つぶも持ち出せない徹底したものだった。
 ブラジル唯一の産物ゴムをまんまと盗み出したイギリスに、敵うちをしてやろうという企ては、その距離から見ても不可能に近い途方もないものだった。
 事実、イギリスは紅茶の世界市場を独占し、何とかその牙城を崩そうとする諸外国の策略も、秘密主義に徹底した鉄壁の警備の前に、のぞき見することすら果たさなかったのである。
 当時のこんな背景に照らして見れば、レジストロ移民のどうにもならない空しいタメ息もうかがい知れよう。長身、痩躯の一日本人旅行者がセイロンの港に降り立ったのは、ちょうどこんな時であった。
 さすがの鉄壁の守備を誇ったイギリスも、ブラジルの片田舎に住むこのジャポネースが一握りの種子を盗むためにはるばる海を渡って、ユニオン・ジャックの旗印をかかげた大プランテーションになぐりこみをかけたとは夢にも思わなかったろう》と記されている。
 「真っ黒な運転手」にリプトン工場見学を依頼した。《言葉の通ぜぬ哀しさに二十円札を一枚出して茶の種の型を紙に記して指に十粒ほどと教えて頼んでみたところ、運転手は首を横に振り、手で日本人のするが如く首を切られる格好をして見せた》(『茶の花』196頁)。
 岡本は電化された近代的な大工場を視察して唖然とした。《工場の庭には沢山の種が干してある。その一粒でもそっと拾ってみたいと思ったが国法にふれる掟にそむいて船の船長への迷惑を思うとき、折角の宝の山に入りながらとはこのことと種を見つめながら、案内の紳士に厚く礼を述べて元きた道に自動車の人となった。ふと目にとまった座席の隅の方に新聞紙に包んだ物がある。若しやと恐る恐る触ってみると茶の種である。思わす傍らの甥に「種だ」と叫んだ。後ろから運転手の肩に幾度となく感謝の異を表現した》(同197頁)
 こうして、アッサム茶の種を百粒ほど極秘で入手した。(つづく、深沢正雪記者)

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