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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(42)

 このアルマゼンについては、本稿では、すでに何度かふれた。浩は、ここから余り遠くないアグア・リンパの安瀬盛次と、ほぼ同時期、この商売を始めている。
 当時、このプロミッソン地方には、植民地が多数でき、邦人が続々と入植していた。これが成功の主因であった。浩は、アルマゼンの他、自動車と石油の販売代理店、製材所、煉瓦工場を経営、道路建設の請負にまで手を広げた。その儲けで500アルケーレスの土地を買い、200アルケーレスにカフェーを植え、残りを分譲した。
 1930年、プロミッソンに邦人の産業組合が設立されると、初代理事長に就任した。40歳の頃である。ただ、アルマゼンは、組合とは競合関係になるので、この時点では手を引いていた筈である。
 1941年、年齢的には50代に入って、北パラナのセント・ビンチ・シンコに420アルケーレスの土地を買い、転住した。ここで、さらに事業を拡張した。1955年に出版された一資料は、浩の事業内容を4ファゼンダ計827アルケーレス、カフェー90万本、同精選工場、精米工場、300アルケーレスの牧場(牛900頭、豚3千頭)、製材所、煉瓦工場──と紹介している。
 彼もまた、本稿一章で記した農業─商業─加工業の流れを形成した一人であったわけである。
 北パラナでは日系・非日系を含めて、カフェーの栽培規模では最大級メルマガであった。有数の事業家でもあった。堅実、周到緻密、一滴の水も洩らさぬという処があり、大衆的人気は湧かなかったが、信用の点では銀行以上といわれた。
 しかし浩は、実はその頃、日本へ──永住の予定で──本居を移している。時々こちらに来ていたが、事業は末弟の邦弘に任せていた。
 しかし何故、日本へ本居を移したのだろうか? 錦衣帰郷は移民の目的であったから、それを果たすという気分もあったろう。が、終戦直後、日本へ旅行、荒廃した惨めな祖国の姿に触れ、自分の余生を捧げようと決意した──という説もある。男の子供が居ないこともあったろう。
 日本では郷里の大分で植林、牧畜、映画館(5カ所)、瓦工場などの諸事業を営み、後に地元の銀行の役員やテレビ会社の社長も務めた。ほかに神戸で貿易会社を経営した。これは、パラナ州の知事からカフェーの市場開拓を委任されたためという。
 浩は静かで、滅多に人前で怒った顔を見せなかったが、本気で怒ると怖い男だった。プロミッソンで500アルケーレスの土地を買った時、測量してみると80アルケーレス不足していた。売り手に交渉したが、誠意がないので告訴した。友人は「泥棒に追い銭だからやめろ」と忠告した。が、浩は「そういうことだから、日本人は外人に馬鹿にされるのだ」と、費用が土地代を上回ることを覚悟の上で、踏み切った。その裁判では、18年間粘り抜いて、遂に勝った。
 18年間! 
 確かに、その位の気魄がなければ、この国では嘗められる。
 産組の理事長時代、内山岩太郎サンパウロ総領事と会談中、その失言を捉えて「軽率な言葉は謹んでもらいたい」と噛みついた。内山は「日本を代表するワシに失礼ナ」と憤然としたが、浩は一歩も譲らなかった。当時は総領事というと、権威があり、普通の人間は畏れたものである。


 次男・斉

 名前の斉は「いつ」と読むと、筆者は人から教えられ、そう書いたこともあるが、実際は「ひとし」だという。この宮本斉が兄とは全く逆の性格で、数々の伝説を残している。
 1898(明31)年の生れで、前記した様に、少年期、兄夫婦と渡航してきた。
 配耕先のファゼンダでは、非日系の子供達と喧嘩ばかりして、生傷が絶えなかった。もっとも兄嫁が死んでからは、コジーニャ(台所仕事)を引き受けるという可愛気もあった。困窮時代は馬車引きをして小銭を稼ぎ、兄を助けた。
 プロミッソン時代に結婚、兄から貰った20アルケーレスの土地で営農した。そのうち子供が生まれた。ところが、その赤ん坊を家に寝かせておき、夫婦で畑に出ていた時のことである。小休止してカフェーを飲みに戻ると、赤ん坊が火がついた様に泣いている。全身を蚊に刺されていた。瞬間「ヤメタ!」と決めた。百姓を……という意味である。その日の内に家具を荷馬車に積んで、町に引っ越してしまった。夫人がエンシャーダ(鍬)を積もうとすると、こう怒鳴った。
 「町に住むのにエンシャーダがいるか!」