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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(95)

マリンガー


 すでに記した通り、北パラナ土地=開発=会社は、ロンドリーナの西方に、多数の植民地をつくった。その内の三十数カ所に日本人が入植した。
 しかし資料類で調べた限りでは、そこに興味深い人物やドラマチックな話題は見つからなかった。一カ所ずつ現地を訪れて取材すれば、発掘できるかもしれないが、丁寧にやれば、一年は要しよう。結局、諦めた。
 ただ(北パラナのチバジー河以西の地方で)東のロンドリーナと比肩する西のマリンガーは訪れた。
 マリンガーの市街地は広く平坦な土地に、整然と建設されている。中央広場に、円錐形のカテドラルが、天を突く様に屹立している。
 ここは他の都市に比較――治安を含む――生活環境の良さで知られる。
 北パラナ土地=開発=会社は、マリンガーの建設に際しては、ロンドリーナでの失敗に懲りて、一旦つくった都市計画の総てを見直したという。失敗とは、ロンドリーナが予想以上に急激に発展、一時期、交通が麻痺状態になったことを指す。
 同社が、マリンガーで植民地のロッテを本格的に売り出したのは1947年である。日本人は、それより8年早く、1939年、田口虎夫という岡山県人の一家がロッテを買って入植した。アラサツーバから移動して来た。
 当時、植民地の最前線は、ここから未だ17キロ手前(東)のマリアルバであった。が、田口一家が買ったのは、さらにその先であった。そこまでは一本の道が通っていたが、自分のロッテに入る枝道は未だなく、原住民に頼んで、原始林の中にピカーダを通して貰った。
 ほかには、非日系も含めて、入植者はいなかった。
 同年、さらに日本人が2家族、以後も毎年、数家族ずつ入った。1947年、会社が正式にロッテアメントしてからは、日本人、非日系人が多数入った。日本人は、ノロエステ線などサンパウロ州奥地からの転住者が多かった。
 彼らは森を拓いてカフェーを植えた。そして――また同じ話の繰返しになるが――ここも霜害などの自然災害、経済・社会両面での難問に見舞われた。さらに1975年の大凍害でカフェーは壊滅した。ある婦人は、その折のことを、こう思い出す。
 「お爺ちゃんが泣いて、泣いて……」
 やがてセレアイスの時代になった。
 
メジャー
 
 2013年、筆者はマリンガーの近郊で、セレアイス農を営む駒込伝三さんという人を訪れた。息子さんたち4人と中規模(年二回計500ヘクタール。含、借地)の営農をしていた。
 駒込さんは、1980年頃までは、満足の行くルクロが残り、土地やマキナも買えたという。が、この取材の時点では「息子を百姓にしたのは間違いだった」と洩らしていた。「中農では駄目だ」というのである。大型農でなければ、ルクロが出ないようになった、と。
 メジャーと組んだことも後悔していた。メジャーについては、本稿では未だ触れていないが、この米国系の大手穀物商が、1980年頃から、この地方に入ってきた。これと契約して営農したところ、結局、利用されただけだったという。今はメジャーや銀行に対する負債の支払いに追いかけられ、土地を休ませることができず、地力も落ちてしまっている由。

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