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融合しないメノナイト文化=篤い信仰、頑なな棲み分け=日本移民にも「他山の石」か=パラグァイ在住 坂本邦雄

パラグァイ、サンイグナシオのメノナイトの馬車(By Patty P (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons)

パラグァイ、サンイグナシオのメノナイトの馬車(By Patty P (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons)

 首都アスンション市より467キロの地点に所在する西部パラグァイのチャコ、特にボケロン県の都フィラデルフィア市では、普通のパラグァイ人や原住民社会のそれよりも、メノナイト文化が優越した現象が顕著である。
 いまだ舗装されていない多くの街路の一つ、ヒンデンブルグ大通りは日中でもほとんどの活動が見られず、なお日が暮れると更に静寂が増す。
 通常は公園にも市民は大して集まらず、この町の人達の生活がいかに平穏であるかを示すものである。
 公園の入り口に立つ掲示版はこの「公共の場」の用益時間や諸規定を告知している。
 商業活動は市役所に依り規制されていて、全市において夜の10時以降はアルコール飲料の販売は禁物である。
 フィラデルフィアのホルガー・ベルゲン市長の話では、市内の営業活動は常にインスペクター達によりコントロールされていて、アルコール飲料禁止令第1642/2000号に基づく市の条例により、未成年者や公道での酒類販売違反者に厳しい罰金が科される。
 なお、給油所、飲食店、スーパー等は正午より14時までの時間帯と、あと20時からは酒類を一切売らない。

順応せざるを得ない規律

 これ等の主にメノナイト文化に由来する自治体の窮屈な市制に順応せざるを得ない、と住民の多くは諦めている。
 地域の国警分署の話しでは、ここの住民は否が応でも市役所の規律に従わざるを得ないと言う。でなければ職場を失い住んではいられないからだと説明する。
 幾つかのメノナイト企業は絶えず従業員の経歴や品行方正のチェックを行なっている。もしも過去に警察に連行でもされた事などが見付かれば、雇用主は容赦なく解雇する。
 しかし、その反面、そのように堅苦しい取り締り制度のお陰で市政は平穏無事で、他の国内地方で頻繁に起きている様な犯罪事件も少なく、住民は安心して暮せるのだとも付言した。

「差別待遇」と住民がコメント

 当地の住民の声として聞かれた事は、各階層の差別待遇の問題である。
 つまり、主流の生え抜きのメノナイト族は同集団資本の全ての参画事業において特権的に処遇されている。
 この差別はしばしば衛生及び教育部門で見られ、診療所や学校での医療又は教育の恩恵は優先的にドイツ系メノナイトの者達が享受している。
 匿名を条件にある公務員が語ったところによれば、フィラデルフィアの市民は四つの階層に分かれていると言う。
 即ち、一番恵まれた社会階級を構成するのは当初チャコに入植したパイオニアのドイツ系メノナイトの後裔達で、現在最も経済力を有する階層である。
 次ぎは、財力がもっと乏しいメノナイト階級で、これにはメノナイトと結婚し家庭を持ったパラグァイ人男女も属する。
 三番目には地域で活躍するブラジル人やパラグァイ人達で、最後の四番目は原住民と其の子孫達の集団である。

パラグァイへのメノナイト移住

メキシコに住むメノナイトの少女(By Arely Flo, via Wikimedia Commons)

メキシコに住むメノナイトの少女(By Arely Flo, via Wikimedia Commons)

 パラグァイへのメノナイトの移住は1926年に、ロシアの1917年のボルシェビキ革命の影響でアメリカ、カナダやメキシコに多数転住したメノナイトの分派がチャコに入植したのが始まりで、戦前の日系移住地ラ・コルメナが出来た10年も前の話である。
 当初メノナイトの南米移住先には、先ずアルゼンチンが第一義的に考えられたが、同国政府はメノナイトの兵役義務拒否や本質的に同化性が欠けるなどで難色を示していた。
 一方、当時のパラグァイは無人境大チャコの傍若無人な侵略を日増しに露骨化していたボリビアの野望を阻止する為に、可及的速やかにその地域の開発、拓殖の要に迫られていたのだった。
 ゆえに、そこへのメノナイト移民導入のパラグァイ当局の政策は当を得たものと、一般市民にも好感をもって迎えられたのだ。
 そして、このメノナイト植民は後のボリビアとの「チャコ戦役」(1932?35年の英蘭系ローヤル・ダッチ・シェールと米系スタンダード・オイルの代理戦争)の際には、パラグァイ野戦軍の大切な一つの兵站基地として大いに役立ったのであった。
 太古は海の底だった言われるチャコは、地質も東部パラグァイとは全然異にし、地下水は塩分が多く雨量も少なく、気候は熱帯性の苛酷な風土条件下において、メノナイト植民は農牧業開発の辛苦に良く耐え抜き、今では有数のパラグァイの基幹産業を構成し国家の発展に貢献している。
 一長一短の世の中、世の中は全てが注文通りに上手く行くとは限らないもので、これが冒頭で触れた地域の既成社会に融合、同化しないメノニタ文化と言われる難点である。
 この点が当初アルゼンチン政府がメノニタ移民の受容れに難色を示した理由であり、宗教信条による徹底した平和主義の為、その子孫は国の兵役義務にも服さない、異端者だと冷評されるのだ。
 だが、その団結力は強く、十六世紀のマーティン・ルーターの宗教改革に端を発するメノナイトの共同組合精神が根幹を成し、その組織は永劫に揺るぎもしないのである。
 翻ってチャコのメノナイト植民より10年後に出来た、戦前の日系初のラ・コルメナ移住地は母国日本の敗戦で一時その存続があやぶまれた。だが、最後まで居残った入植者の大結束で自主的に産業組合が結成され、それによって同移住地の起死回生が見事に果されたのだった。
 ブラジルのアマゾン移住の先覚者と呼ばれる東京の海外植民学校を創設した崎山久佐衛先生は、理想の村落に不可欠なのは「教会、学校、共同組合」の三つだと説かれたが、これは取りも直さずメノニタ精神やアメリカの大を成したピューリタン精神に相通じるものである。
 戦後の各日系移住地でも共同組合が創られ、それぞれ立派にその使命を果たしているが、本来の組合精神を疎おろそかにしない事が大切である。
 なお、メノナイトは地域社会に同化せず排他的なのが欠点だとされるが、日本人もそれほどの事はないにしても、パラグァイ人に色々と非難されるのも事実である。
 そこで銘記したいのは、パラグァイ政府のある高官が、「我々が日本人の移住に求めているのは日本の文化の良いところをパラグァイ人に正しく伝え、遺して貰いたい事だ。逆に日本人が余りパラグァイ人になり過ぎて貰っては困るのだ」と筆者に大真面目に語った事である。
 要はパラグァイ人の人間改造なくして国家の革新は望めないと言ったところか。課された大きな宿題である。

メノナイト(ウィキペディアより抜粋)

 メノナイトはブレザレン、クエーカーと共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動している。メノナイトという言葉は教派そのものと、その信徒を指すときの両方に使われる。
 2006年時点で、世界には約150万人のメノナイトがいる。世界中のメノナイトは、単に質素な生活を送る人々から一般の人とはすぐに違いを識別できるほど時代がかった服装や外観の人々までさまざまな程度で、メノナイトの生活習慣を受け継いでいる。
 少数の顕著な例外はあるものの、ヨーロッパや北アメリカにおいてメノナイトは圧倒的に田舎に居住し続けている。メノナイトのかなりの数がアフリカに住んでいるが、六大陸の少なくとも51の国で強固な独自共同体を形成し、あるいは他の一般大衆の中に分散した形で生活している。

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