母親のトシ子さんから退去命令が下された話を聞いたゆうせいさんは、すぐに学校へ行って先生にその事を伝えた。先生は「私の家に来なさい」と申し出てくれたが、家族と共にいることを選び、先生に別れを告げた。
当時、父親のユウキさんはアルゼンチンへ出稼ぎに行ったきり行方不明になっており、母親と5人兄弟と共に暮らしていたという。家に戻ったゆうせいさんは、家族と共に、近くに住む叔父の家に向かった。
叔父の家に向かう道は、何も変わった様子は無いように見えた。その頃、ドイツ軍が攻めてくるという噂があり、街灯は消して、町中を暗くしていた。電車の灯りさえも消されており、「夜は外出禁止で遊べなくて怖かった」とゆうせいさんは記憶を辿る。
差別も日常的にあった。日本人が3人以上集まること、日本語で話すことは禁じられていた。あちこちに軍隊がいたので、万が一話しているのが分かったら連行されたという。
ゆうせいさんも、一度電車の中でウチナーグチ(沖縄語)を話した時は、母親から喋らないように注意された。
また、当時はサントス海岸近くで、アメリカ軍の戦艦が沈められる事件があり、日本人がやったと疑われていた。ブラジル人から「日本人はサントスから出ていけ」と言われたこともあった。
「日本人はとても嫌われていた。キンタコルナ(第五列、スパイなどの存在)という劣等国民の扱いを受けていました」。その屈辱は、今でも覚えている。
夕方、叔父の家に到着し、叔父と母親は「サンパウロは寒いから」と町に洋服を買いに行った。それに幾つかの毛布などを持ち、準備を終えて夜に駅まで向かった。
駅は人がいっぱいで、「ほぼ9割近くが日本人だった」という。イタリア移民やドイツ移民もたくさんおり、皆が混乱している様子で騒がしかった。中には家族と離れ離れになり、大声で探す人もいた。
汽車に乗り込むと、その中で1日中過ごした。その間食べ物もなく、ひもじい思いをした。やっとサンパウロの収容所に着くと、一切れの硬いパンとフェイジョンを口にすることが出来た。
その時、ようやくゆうせいさんは、この状況について考えることができた。何が起こったのか、何故サントスを出なければ行けなかったのか、家はどうなるのか――。周りの泣いている人や、不安そうな顔をしている人を見て、幼心に疑問が湧いてきた。
「あの出来事も過ぎ去って忘れていた。誰にも話さなかった」。だが、こうして記憶を呼び覚ますと、理不尽な扱いを受けたという気持ちが残る。
「差別は間違っている。両親が日本人だとしても、自分はここで生まれたブラジル人。この国の人間だ。このような事件は、二度と繰り返されてはならない」。(つづく、有馬亜季子記者)
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サントス強制退去事件の名簿を発見した松林要樹さんが制作した、サントス強制退去事件に関するドキュメンタリー番組の放送が決定した。題名は『語られなかった強制退去事件』で、NHKのBS1で12月19日(木)連午後23時~23時50分(日本時間)に放送される。残念ながらブラジルでも見られる「NHKワールドプレミアム」では、いまのところ放送されないよう。何らかの観る手段がある人は、本紙で連載している「サントス強制退去の証言」と合わせてぜひ観てほしい。