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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(11)

第3節 産業の発達と教育・文化の普及

5代将軍徳川綱吉(日本語: 土佐光起English: Tosa Mitsuoki / Public domain)

 17世紀のなかばになると、戦国時代の荒々しい気風も弱まった。5代将軍徳川綱吉(1646―1709)は1687年、「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい) を発し、あらゆる生き物の殺生を禁じた。犬や猫でも虐待したら島流しになるなど行き過ぎた処罰は批判を浴びて、「犬公方」とよばれたが、一方で綱吉は湯島聖堂を建てて儒学の普及に努め、学問による文治政治を行った。信仰心のあつい綱吉は多くの寺社の造営や修理を行ったが、これらにかかる費用で幕府は財政難におちいった。
 綱吉没後の1709年、6代将軍家宣はただちに「生類憐みの令」を廃した。寺社の建立も中止させたうえ、新井白石(1657―1725)をとりたてて、財政立て直しの倹約政策に取り掛かった。綱吉の時代には産業が発展し、大名をしのぐ豪商も現れた。経済力をつけた町人は、大阪や京都を中心に、日々の暮らしを豊かにする新しい娯楽や文化を生み出した。これを元禄文化という。
 大阪の井原西鶴は庶民の浮世の欲望を描いた『日本永代蔵』などの小説を書いた。近松門左衛門(1653―1724)は歌舞伎や人形浄瑠璃の台本作者として『曽根崎心中』など人間らしく生きようとするゆえに身を滅ぼすような悲劇を描いた。松尾芭蕉(1644―94)は俳諧(俳句)を完成させた。絵画では尾形光琳が装飾性豊かな屏風絵を大成させ、菱川師宣は町人の風俗を描いた浮世絵を確立し、版画として、手に入れやすい値段で売り出された。
 また学問としては、社会を安定させる学問として儒学が奨励された。その中でも、正邪を厳しく問う朱子学を重視し、林羅山らを登用した。水戸藩主徳川光圀は朱子学と尊王論に立って、『大日本史』の編纂に着手し、のちの国学の成立に影響を与えた。一方、陽明学の中江藤樹は、学び、そして実践せよ、と説いた。
 山鹿素行なども論語を学べ、と説いた。自然科学の分野では宮崎安貞が『農業全書』を著し、農学のバイブルとなった。関孝和は独力で代数学を編み出し、円周率を算出した。この日本式数学は和算と言われ、大衆にも広がり、世界的な水準を超えていた。


《補講》 二宮尊徳と勤勉の精神

二宮尊徳座像(部分、岡本秋暉(しゅうき) / Public domain – 報徳博物館蔵)

★はたらきつつ学ぶ
  二宮尊徳(幼名・金次郎)は 1787年、現在の神奈川県小田原市の農家に生まれました。父が病死したため、長男の金次郎は14歳で家督をつぎました。一家を支えながら金次郎は学問を忘れませんでした。『大学』などの漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)を読みながら山で刈った柴や夜なべして編んだ草履を売り歩いたといいます。

★「積小為大」の信念
 16歳で母もなくなり一家は離散し、金次郎は伯父の家に預けられました。伯父は灯油を惜しんで夜の読書を禁じましたが、金次郎は自分でつくった菜種油を灯して勉強しました。金次郎は「積小為大」(せきしょういだい=小さいことでも積み重ねると大をなす)という信念で、何事も無駄にせず、工夫をこらしました。田植えのあとに捨てられた苗を拾い集め植えて、なん俵もの米を実らせました。

★605町村の復興
 農業指導者・経営者に成長した金次郎は、二宮家を再興し、頼まれて小田原藩家老・服部家の財政を5年で回復させました。小田原藩主の命を受けた金次郎は、182cm、94kgの体で下野国桜町(栃木県)の新田開発や荒地の再生に駆け回りました。金次郎は自ら田畑に入って実地指導し、用水堰をつくり、治水を行い、橋をかけ、605町村を復興させました。

★「徳をもって徳に報いる」
 二宮尊徳は、単に勤勉を説くだけでなく、合理的な考えを持ち、金銭の使い道をよく心得た財政家でもあったのです。徳をもって徳に報いるという尊徳の精神は明治維新後も引き継がれ、近代国家建設を進めた日本人の心の支えとなりました。


新田開発で田畑の面積2倍に

 平和な社会が到来し、人々は安心して生活の向上をめざして働いた。幕府や大名も、共に農地の拡大につとめ、干潟や河川敷などを中心に、新田の開発が大規模に行われた。江戸幕府が開かれてから、100年の間に、全国の田畑の面積は大よそ2倍近くになった(江戸時代初期に約150万haの農地があったが、江戸時時代中期には300万ha弱まで広がった)。
 農地の大開発と共に、農業・産業・交通なども大いに発達した。田畑を深く耕す備中鍬、脱穀用の千歯こきなど農機具の改良も行われ、農作業の能率が向上した。肥料も、干鰯(ほしか) や油粕を使うようになり、土地の生産性も高まった。
 こうして米の生産高は上がったが、年貢は据え置かれたため、実際の年貢率は収穫高の3割程度まで軽減した。農村における商品作物の栽培も盛んになり、染料の藍や紅花、油をとる菜種、織物の麻なども生産された。18世紀になると綿の栽培が全国に広がり、養蚕も普及した。こうして、江戸時代の農民は豊かさを感じる暮らしが出来るようになった。
 江戸を始め、各地で城下町の建設が進むと、家屋建築の為の木材の需要が高まり、林業も盛んになった。また、肥料の干鰯を大量に生産するため、房総(千葉県)では網を使ったイワシ漁が盛んになった。土佐(高知県)では、クジラ漁やカツオ漁、蝦夷地(北海道)ではニシン、コンブ漁、瀬戸内海沿岸では製塩業も発達した。
 鉱山の開発も進み、佐渡(新潟県)の金山、生野(兵庫県)の銀山、足尾(栃木県)や別子(愛媛県)の銅山が有名になった。幕府の統制のもと、金・銀・銅で貨幣が造られ、銀や銅は国外にも輸出された。17世紀初頭、日本の銀輸出は年間200トンに達し、全世界の三分の一を日本が占めたと推定する資料もある。
 家康が江戸幕府の始まりに計画した日本橋を基点にする五街道は約160年後 に完成した。参勤交代のために日本橋から始まる一里塚を建て、ヒノキ・マツを植えて目印とし、8km~12kmごとに宿場町を整備した。関所を置いて人々の交通を管理する一方、手紙を運ぶ飛脚の制度をつくり、通信の便宜をはかった。
 18世紀の初めには、江戸の町は「将軍様のお膝元」とされ、商人や職人が多数集まり、人口100万を越える世界最大の都市となった。大阪は、米、木綿、醤油、酒など様々な産物の集散地となり「天下の台所」と呼ばれて栄えた。
 各藩は、大阪に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却を商人に委託した。大阪に集められた物産の多くは、菱垣(ひがき)廻船や樽廻船によって江戸に運ばれ、清酒や織物などは「下りもの」として珍重された。
 京都は、「帝のおはすところ」として1000年の首都であり、神社、仏閣など古い文化を誇った。また西陣織や漆器・武具・蒔絵など高級な工芸品を生産する手工業都市でもあった。江戸、大阪、京都を合わせて三都(さんと)といい、三都は互いに競い合い、補いあって栄えた。

寺子屋で世界最高レベルの庶民に

寺子屋の筆子と女性教師 一寸子花里「文学ばんだいの宝」(signed: Issunshi Hanasato (一寸子 花里) / Public domain)

 16世紀後半に日本を訪れたキリスト教の宣教師は「日本では女子供までが字が読める」という驚きの報告をしている。江戸時代になると庶民の子も読み書きを学び、後期には江戸の識字率は50~60%と世界最高のレベルまで高まり、当時のロンドンやパリの識字率を越えていたといわれている。 江戸時代の庶民教育の場は、寺子屋だった。お寺や自宅を解放して僧侶や浪人らが教師役にあたった。寺子屋は全国に約1万5000軒以上あった。江戸や大阪の大きな寺子屋には、500人から600人の寺子がいた。男も女も7歳か8歳で入学し、4年~5年で修了した。
 武士の子弟は、それぞれの藩校で学んだ。藩校は全国で280余あり、文武両道で鍛えられた。水戸の弘道館、長州の明倫館、薩摩の造士館等名門館が沢山あり、多くの逸材を世に送った。そのほか、緒方洪庵(1810―63)の適塾、シーボルト(1796―1866)の鳴滝塾、吉田松陰の松下村塾などの私塾が全国にあった。優れた学者の下に向学心に燃えた若者が集まり、蘭学や医学などを懸命に学び、日本の近代化に貢献した。
 寺子屋などの庶民の教育の普及によって、全国で町人や農民の生活に即した実学が花開いた。石田梅岩は私塾を開放し、勤勉・倹約・正直・孝行など庶民の生きかたを解りやすく説いた(石門心学)。本居宣長(1730―1801)は『古事記』など日本の古典の研究を通して、儒教や仏教など「漢意」(からごころ)の影響を受ける以前の日本人の「大和心」の美しさを明らかにした。また、皇室の系統が絶えることなくつづいていること(万世一系)が日本が万国に優れている理由であると説き、国学の礎を築いた。
 8代将軍・徳川吉宗はキリスト教と関係のない洋書の輸入を始めて許したため、ヨーロッパの学問をオランダ語で学ぶ蘭学が発展した。華岡青州は、全身麻酔薬を開発し、無痛の乳がん手術に成功した。杉田玄白と前野良沢はオランダ語の解剖書を苦心して翻訳し、『解体新書』(1774)をあらわして、外科医学に貢献した。
 平賀源内は独力で摩擦発電機・耐火布・寒暖計をつくり、天文学の麻田剛立は天命6(1621)年の日食を予言して的中させた。伊能忠敬(1745―1818) は蝦夷地をふくむ日本全国を歩いて測量し、始めて正確な日本地図をつくった。また最上徳内らは千島列島まで足をのばして踏査した。


《資料》 寺子屋の教育

 寺子屋では、読み・書き・算術に加えて、教訓、社会、地理、歴史、礼儀作法、実業などを教えた。女子には裁縫や活け花も教えた。寺子屋は、徳の育成を重んじた。孝行、正直、心の持ち方の大切さを教え、敬語と言葉づかい、勉強の時の姿勢や食事のとりかたなど礼儀作法をしつけることに力が注がれた。教科書は往来ものとよばれ、7000種類以上が今日も残っている。先生は手習い師匠と呼ばれ、3人に一人は女性であった。師匠は全身全霊を傾けて教えた。


《補講》 正確な日本地図をつくった伊能忠敬

伊能忠敬の銅像(富岡八幡宮、酒井道久さん撮影)

 これは、地球や日本の大きさを知りたいという探究心と国防の必要性が結びついて生まれた精密な日本最初の地図作製物語です。忠敬は、上総の国(千葉県)に生まれました。18歳で佐原村の伊能家の養子になりました。学問の好きな忠敬は、家業の酒造業のかたわら和算や暦学に興味を持ち、江戸から書物を取り寄せ、勉強しました。
 50歳になった時、息子に家をゆずり、江戸に行きました。幕府の天文学者・高橋至時の門をたたき、天文学や暦学の基礎を学びました。その当時は、日本の近海に英国、米国、ロシアの船が出没しており、蝦夷地にひんぱんに姿を見せていました。
 1800年、幕府は忠敬に蝦夷地の測量を命じました。測量用の機械や助手を連れ、30日もかかって蝦夷地に着きました。函館を基点に東南海岸にそって測量を始めました。忠敬の測量方法は、様々な機械を使って、角度や距離を測りながら進むのです。
 複雑な地形では縄を使い、平地では量程車を転がして測ります。忠敬は 1歩69cmという正確な歩幅で歩くことが出来、歩きながら測量すると1日平均15・7km進んだそうです。日中は太陽、夜は恒星で位置確認をしました。
 江戸に戻って、蝦夷地の東南海岸部分と奥州街道の地図を完成し、幕府に提出しました。日本の国土の形と位置を始めて明らかにした画期的な実測図でした。そして、忠敬は、日本全土を測量してまわり、日本全図の作製にとりかかりました。
 しかし、その完成を見ないままに1818年、74歳の生涯を終えました。忠敬が蝦夷地から九州まで歩いた約3万5000kmは、地球を一周するほどの長さでした。日本全図は、幕府の暦局の人々によって1821年に完成し、『大日本沿海與地全図』、別名「伊能図」と呼ばれました。
 幕末に来日したイギリス海軍の将校は、日本を後進国と思って、侮っていましたが、『伊能図』をみて「西洋の技術もつかわずに、なんと正確なのか」とおどろき、測量は必要ないと引き上げてしまいました。『伊能図』は、和算の水準の高さ、科学を極めようとする実証精神、困難にめげない不屈の日本人の魂の記念碑なのです。

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