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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(19)

中国の排日運動と協調外交の挫折

蔣介石(中華民國總統府(總統玉照由國史館提供), Attribution, via Wikimedia Commons)

 1925年頃、中国には各地に私兵を抱えた軍閥が群雄割拠していた。孫文は国民党を創設し、その後を継いだ蒋介石は、各地で軍閥と戦い、全国統一を目指した。
 1928年、蒋介石は、北京を押さえて中国を統一したかにみえたが、不完全で、地方の軍閥は統一されず、地方に残存していた。日本が権益を持つ満州は、満州族のもので、日本の関東軍が地方の軍閥と争っており統一の手が及んでいなかった。
 この頃の中国国内では、中国に権益をもつ諸外国を排撃しようとする動きも高まっていた。それは中国の民族的発揚だったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響を受け、過激な性格を帯びていた。勢力を拡大する日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になっていった。
 一方、日本の外交は、政党内閣のもとで2期に渡って外務大臣を務めた幣原は、英米と協調して条約を守りつつ、中国の関税自主権回復を支持した。中国の民族的感情に同情を持ちながらも、国際協調を進める外交を推進した。
 しかし、中国の排日運動は収まらなかった。日本国内では、軍部を中心に幣原の外交を軟弱外交として、批判する声が強くなった。
 満州においては、日露戦争の勝利によって、遼東半島南部の関東州を租借し、ロシアから長春より南の鉄道の営業権を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)を設立した。
 昭和初期の満州には、既に20万人以上の日本人が移住していた。その保護と、関東州及び満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。
 1928日本は山東省に居留民保護を口実に、軍隊を派遣(山東出兵)した。満州の平和的な安定を模索していた関東軍は、軍閥の張作霖を除き、満州への支配を強めようとした。
 これに対し、中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害やテロ活動も始まり、日本人居留民の安全が脅かされた。更に、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力も及んできた。こうした中、関東軍の一部将校は、満州を軍事占領して、排日勢力を駆逐し、日本の権益を守ろうとする計画を練り始めた。

満州事変と満州国建国

満州事変で瀋陽に入る日本軍(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 1931年9月、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、これを中国側の攻撃だとして、満鉄沿線都市を占領した。政府と軍部中央は不拡大方針をとったが、関東軍は軍事行動を拡大し、全満州の主要地域を占領した。
 満州で日本人が受けていた不法な被害を解決出来ない日本政府の外交に不満を募らせていた多くの日本国民は、関東軍の行動を支持する者が多く、陸軍には多額の支援金が寄せられた。政府も、関東軍の行動を追認した(満州事変)。

天津時代の溥儀(ふぎ)と婉容(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 満州の現地に根を張る軍閥の中には、関東軍と行動を共にするものもあり、1932年3月、関東軍は清国最後の皇帝溥儀(ふぎ、1906-1967)を執政に立て、満州国を建国して、実質的に満州国を支配した。溥儀は後に、満州国皇帝の地位についた。溥儀は満州族の王朝であった清国最後の皇帝で、正式名は愛新覚羅溥儀。1931年の辛亥革命により翌32年に退位、天津に幽閉されていた。
 満州事変が起こると祖父の地である満州行きを希望し、関東軍の支援で幽閉から脱出し、満州に迎えられた。1932年5月、政友会の犬養首相は、海軍将校らによって暗殺された。(五・一五事件)ここに政党内閣制の時代は終わりを告げ、その後は軍人や官僚出身者が首相に任命されるようになった。

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞(Osaka Asahi Shimbun, Public domain, via Wikimedia Commons)

 アメリカはじめ各国は、満州事変を起こした日本を非難し、国際連盟を通じてイギリスのリットン卿を団長とする調査団を日本、中国、満州に派遣した(リットン調査団)。
 調査団は満州における日本の権益の正当性や、満州に在住する日本人の権益と安全が脅かされていることを認めたが、他方、日本による満州建国を認めず、満州の占領地からの撤退と国際管理を勧告した。
 それは、満州における中国の主権を認め、法と秩序を維持出来る体制を作ることを意味したが、既に満州国を承認していた日本政府は、1933年この勧告を拒否、国際連盟を脱退した。
 その後、日中間で停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和・王道楽土建設のスローガンの下、日本の重工業の進出などによる凄まじい経済成長を遂げた。反日・抗日運動も頻発したが、建国時 3千万人の人口が、1945年の日本敗戦の時には、5千万人となっていた。建国よりたった13年間で1・7倍の人口となったことから、いかに大発展したかが分かる。
 1936年、日本では二・二六事件が起こった。陸軍の将兵が警視庁や首相官邸を襲い、大臣などの要職者を殺害し、国会周辺を占拠した。
 この叛乱は、昭和恐慌による農村の疲弊、政治の腐敗を抑え、体制の刷新を訴え、天皇の親政を願うものだった。
 昭和天皇は二・二六の叛乱を許されず、3日間で鎮圧された。事件後、陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し、陸海軍の支持がないと、内閣の組閣が出来なくなった。また、政権運営が難しくなり、軍人の発言力が増した。

日中戦争(支那事変)

 コミンテルン(国際共産党)は、ヨーロッパの資本主義諸国で一挙に体制を変える世界革命を目指していた。
 しかし第一次世界大戦後のヨーロッパにおける革命闘争に敗北し、別の道を探した。そして社会主義のソ連を守りつつ、欧米や日本の植民地で活動する世界的な革命戦略を立てた。
 活動拠点の中国では、日本が次第にその標的になっていった。その頃の中国は蒋介石の率いる国民党と毛沢東の率いる共産党が激しく対立し、内戦状態にあった(国共内戦)。共産党の方が劣勢で、消滅の危機に追い込まれていた。
 そこで共産党はまず、共通の敵である日本に対し、力を合わせて戦うこと(抗日)を国民党に呼びかけた。しかし蒋介石は、まず始めに国内の共産党勢力を倒し、その後日本と戦うという戦略は変えなかった。
 1928年の列車爆破事件で爆殺された張作霖の息子の張学良は、蒋介石に共産党の討伐を命じられたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していた。
 そこで1936年12月12日、蒋介石を西安で監禁し、内戦をやめ、国民党と共産党は、両者で日本と戦うことを認めさせた(西安事件)。
 こうして、中国は日本と戦う体制が整っていった。1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件が起きた。翌日には国民党軍と戦闘となった(盧溝橋事件)。
 日本軍も国民党軍も戦闘拡大の意図はなく、4日後に停戦協定が結ばれた。8月上旬、上海で日本陸軍の将校一名とその運転手が惨殺され、7月29日には北京近郊の通州で日本人居留民223名が無残にも虐殺される事件が起きた(通州事件)。
 8月13日、国民党政府軍の蒋介石が戦闘をしかけた。国民党の大軍は、上海の日本人住居区を守っていた日本海軍陸戦隊を攻撃、激しい戦闘が始まった(第2次上海事変)。
 そのため、日本側は日本から中国への派兵を決めた。日本軍は中国陸軍精鋭部隊に苦戦を強いられ、11月までに4万人もの死傷者を出した。
 日本政府は、国民党政府の首都南京を落とせば、蒋介石は降伏すると考え、この年 12月に日本軍は南京を占領し、平和裡に南京を治めた。
 蒋介石は南京より更に奥地の重慶に逃げ、抗日戦争を続けた。その後、第2次大戦終了まで8年間続いた戦争を日中戦争(当時の呼称は支那事変)という。

中国を巡る日米関係の悪化

 泥沼化する日中戦争は、米英仏ソ連の支援を受けた蒋介石が、日本軍に対して抗戦を続け、戦争は長期化し、いつ終わるとも知れなかった。
 1937年、開戦当初の日本国内は、戦争景気で雇用が増え、消費が拡大した。しかし中国大陸での戦争は、奥地にまで拡大し、泥沼化してゆき、終結の目処も立たなかった。
 日本は、早期の戦争終結を望み、和平工作を図ったが、日中双方の足並みが揃わず、上手くいかなかった。長引く戦争を遂行する為に1938年には国家総動員法が成立した。議会の同意なしに、物資や労働力を動員出来る権限を軍隊に与えた。
 1940年に入ると、米、味噌、砂糖、マッチなどの生活必需品まで配給制となった。同じ時期に、国会では「この戦争の目的は何か」と聞かれた政府は明確に答えることが出来なかった。
 国民は、「贅沢は敵」というスローガンの下、切り詰めた生活を余儀なくされた。また国内の検閲も強化され、ますます不自由になった。
 ドイツやソ連のごとく、統制経済を理想とする考えが広まった。軍部の力が強くなり政党が解散され、大政翼賛会にまとまり、挙国一致体制が出来上がった。

近衞文麿(このえふみまろ、内閣情報部, Public domain, via Wikimedia Commons)

 1938年、近衛首相は「東亜新秩序構想」を発表した。東亜とは、日本、満州、中国を含む地域を指し、日本を中心に独自の経済圏を作るという構想であった。
 国内の不況が続くアメリカは、門戸解放、機会均等を唱え近衛声明に強く反発した。蒋介石を影で応援していたアメリカは、この前後より公然と国民党の蒋介石を支援するようになり、日米戦争が近づいた。
 1939年アメリカは日米通商航海条約を延長しないと日本に通告した。石油や鉄など多くの物資をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、更に苦しい立場に追い込まれた。
 この頃より、日本は、石油などの資源を得るため、東南アジアに進出する考えが強まった。しかし日本が進出すると、そこに植民地を持つイギリス、アメリカ、オランダ、フランスなどの軍隊がおり、衝突は避けられなかった。


《資料》中国国民党の蒋介石軍への欧米諸国の援助

【ソ連】1937年・飛行機900機、戦車200両、トラック1500両、銃15万丁、弾6千万発、1939年・1・5億ドル。ソ連空軍密かに参戦
【アメリカ】1927年~1941年・軍事費4・2億ドル。1940年・戦闘機50機、弾丸15万発。1941年・戦闘機 50機、トラック300両、B17爆撃機 500機。
【イギリス】1939年と1941年・軍事費2千万ポンド。これらの軍事援助物資を蒋介石の国民党軍に届けるため、アメリカと英国はビルマとインドシナを貫通する巨大な山岳道路を建設、整備した。これを援蒋ルートと呼んだ。
【フランス】1938年・軍事費1・5億フラン、1939年・軍事費 9600万フラン


第2次世界大戦の始まり

 1939年9月、ヒトラー率いるドイツは、武力による領土回復と拡張を始めた。その前にソ連と不可侵条約を結んでおき、一気にポーランドに攻め込んだ。密約通り、ドイツとソ連はポーランドを分割占領した。
 イギリスとフランスは、ポーランドとの相互援助条約によって、ドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まった。1940年ドイツ軍はヨーロッパに侵攻し、パリを占領し、フランスを降伏させ、イギリス本土に激しい空爆を行なった。
 日本は、1940年に、遠いヨーロッパの戦争当事国のドイツとイタリアと三国軍事同盟を結んだ。実質的な効用がないばかりか、反対にイギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させた。
 1941年4月、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、2つの条約の圧力でアメリカからの譲歩を引き出そうとしたが、6月にはドイツがソ連に侵攻したため、ソ連は連合国側に加わった。
 そのためこの狙いは狂ってしまった。それで、日本は日米関係を打開するため、ワシントンにおいて直接交渉を始めたが、交渉は進展しなかった。
 日本は石油の輸入先を求めてインドネシアを領有するオランダと交渉したが成功せず、反対にアメリカ、イギリス、支那、オランダの4カ国が日本包囲網を作り、日本を経済的に追い詰める状況となった(ABCD包囲網)。
 同年7月、日本の陸海軍はインドネシアの石油提供に関してオランダに圧力をかける目的で、仏印のサイゴンに進駐した(南部仏印進駐)。サイゴンは日本が南進する場合に軍事上の重要拠点であった。
 7月に、アメリカは在米日本の資産を凍結していたが、8月には更に対日石油輸出を全面的に禁止した。当時の原油は95%がアメリカ、5%がオランダ領インドネシアで産出していた。日本の原油在庫は1年半分しかなかった。
 同月、米英両国は大西洋上で首脳会談を開き、「領土の不拡大、国境線の不変更、民族の自決」 など両国の戦争目的と戦後の方針を打ち出した(大西洋憲章)。
 経済的に追い詰められた日本は、アメリカとの戦争を何とか避けようと最大限の努力を続けた。妥結しない場合は、開戦するという決意の下に日米交渉を続けた。
 1941年11月26日、アメリカより突きつけられた最後通牒「ハル・ノート」には、「中国、インドシナから無条件で即時撤退せよ」という強硬な要求が綴られていた。これをアメリカ政府の最後通告と受けとめた日本政府は、やむなくアメリカとの戦争を決断した。

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