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特別寄稿=コロナ禍闘病記=コロナウイルスと共生して=サンパウロ市在住  嶺井由規

まるで操り人形のように

嶺井由規さん

 突然、猛烈な勢いで襲ってくるとは夢にも思わなかったし、コロナウイルスの恐ろしさを、十分思い知らされた。
 コロナウイルス感染の兆候は、発熱、咳、体の痛み、味覚の低下と言われているが、その日午前一時頃だったと思うが、セアザで花の仕入れをしている時、急に喉の乾きを感じた。
 喉の奥に焼き石が詰っているような感じである。水が欲しいと思った瞬間に、身体全体が地面に崩れ落ちた。まさに操り人形が使い手から離れ地面に崩れ落ち、骨抜きのばらばらになるような感じである。
 二、三人の隣に居合わせた人たちが、ダラッとしている僕を抱き起こし腰掛に座らせてくれた。気を取り戻し気分が少し良くなり落ち着いた頃に看護師さんがやって着て、病院に検査のために行くことを促がすが、僕は断った。
 まだ仕入れの仕事が終わってなかったし、まさかコロナだとは夢にも思っていなかったのである。
 セアザには救急車が配置されている。一時間ほどで仕入れを終えて車に積み込み、いざ運転席に座った途端に第二弾がやって来た。前と同じように身体がダラッとなり、身動きも出来ない。
 またそばに居た人たちの助けで車から降ろしてもらった。誰かが通報してくれたか、さっきの看護師さんが来てくれた。今度は問答無用救急車に乗せられて病院へと走った。

病床での隔離生活

救急車で運ばれるコロナ患者(Foto: Pedro Guerreiro/Ag. Pará)

 救急車で半時間ほど走って病院に着き、手続きを済ませ、肺の精密検査を受けた。
 医者から肺の60パーセントが侵されているからと入院を告げられた。困ったものだ。その時、初めてコロナに感染したことを芯から実感した。
 一つの部屋に移された。シャワーつきのトイレ、病人用の寝台、付き添い人用ソファ付きのかなり広い間取りの病室、この部屋が僕の隔離場所である。
 寝台に寝かされ、すぐに酸素吸入器を差し込まれ、点滴、血液検査と、入れ替わり立ち代り看護師たち医療関係者の世話がはじまった。
 その晩は2時間おきぐらいに診察されたので睡眠をとることができなかった。何が何やらわからず、頭の整理が出来ぬまま一晩過ごす。
 翌朝起きようとするが身体全体に力なく起きることができない。用をたしたいからトレイにと看護師さんに頼み起こしてもらう。しかし歩けない。看護師さんの手をかりトイレへたどり着くが、筋力が低下しているみたいである。これもコロナのせいであろう。
 また声が出ない。肺活量の低下で声帯が侵されているみたいである。しかし身体全体のどこにも痛みを感じない。ただ身体がダラッとしているだけで、熱が出はじめた。
 悪い傾向だ。すぐに熱さましを点滴で注入される。こういう日課が十日間以上続く。毎朝担当医がきて病勢を説明してくれる。それを聞き一喜一憂の毎日であった。

コロナウイルスとの共生の中で

集中治療室の病床(Foto: Mateus Pereira/GOVBA)

 さて、医師や看護師さんたちの話をまとめ、自分自身の容体を自分なりの解釈をしてみることにした。コロナワクチンがない中で、沢山の薬を投薬しているのは、今、肺や筋肉を侵しているウイルスの拡大を防ぎ、またその他の器官にウイルスが移転しないように包囲作戦をしているかのように思われた。
 血中酸素飽和度が低く、また肺の酸素飽和度も低く、僕の命は生と死の中間にぶら下がって揺れている。確かにそうかもと思う。
 しかしその時点においても、死にたいする恐怖心や死ぬという考えは脳裏には全然浮かばなかった。僕、または他の人々も死ぬ一秒前までそうでないか、と推測する。
 コロナで亡くなった人々の人生の運命論や宿命論がその時点でとぎれてしまうのだろうか。
 宇宙がなんらかの警告を全人類に示したことかもと思う。神や仏に命乞いをするか、無神論者に近い生き方をしてきた僕には、今さらそれは出来ない。
 神や仏に念願するのは他人様への願い事でなければならないと思うから。だから今の僕は、僕の運命を握っているコロナウイルスと対話することにした。

新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真(Crédito: NIAID)

 コロナは僕の身体の内部に侵入し、器官を食いつぶし、体内に存在し僕と共生している。ウイルスは感染する生物がいないと生きることができない。生かさず殺さずの今の病状、「このへんでかんべんのほどを」と脳で叫び胃の底に送り込む。自己暗示。
 翌日、医師や看護師さんから容態が回復に向かっていると伝えられる。ホッと安堵した。これからは自然体でいくように心かけることにして成り行きに任せ、それに従うことにした。その5日後に退院することができた。
 闘病中の21日間に色んな事が頭の中からこぼれ落ちた。自己反省、家族、友人、とくに亡くなった友人たちのことが昨日のことのように脳裏に浮かんでは消え、また浮かんだ。
 若い頃、無頼のままに友人たちと飲み歩き流れのままに生きてきた人生。かと思えば身を粉にして県人会の活動に没入もしてきた。流れに身を任せ、流された人生だったのか。
 自分は、何であったのか、今は何であるのか、そして何であるべきか、突然襲ってきた人生の暗転の中で改めて自分の人生について模索する日々であった。
 入院した翌日、娘も検査を受けると感染しているとの事、病院とかけ合い娘を付添い人として同居してもらうことにした。娘は病状が現れることなく普通の状態である。

集中治療室を見舞う家族のイラスト

 本当に助けてもらった。医者、看護師の皆さんと会話し、説明を聞き、それを優しく僕に説明してくれた。娘は楽観思考で、「パパィはコロナには絶対負けない、治る、必ず治して見せる」と励ましてくれた。
 この子を育てて良かった、とつくづく思った。
 また感染度の高い最前線で働いている医師・看護師さんら医療従事の皆さんは、いつも笑顔で接して励ましてくれた。感謝の思いが心から湧いてきた。
 コロナ感染症が蔓延する最前線で人々の命と向き合い、コロナウイルスと共生して働いている姿に襟を正され、頭が下がる思いであった。
 退院して数カ月が経過して体調も順調に回復しているが、身体の気だるさや余震のような心身の不安定さに時々襲われる。
 けれども、僕は、家族の助けを受けながら家業にも一歩一歩戻り日常を取り戻している。
 そして闘病の中で模索した自分の人生の在り方について改めて問い続けたい思いでいる。