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日系健食業界の攻防=連載(4)=プロポリスブーム=火付け役は国際養蜂会議=こだわり追究、激戦勝ち抜く

健康広場

2005年10月5日(水)

 プロポリスが日本でブームを起こすきっかけになったのは、何だったのだろうか。養蜂関係者は「第三十回国際養蜂会議」(一九八五年、名古屋)だったと、口をそろえて言う。
 この会議はミツバチ飼育業者や研究者が集まって情報交換や研究発表を行おうと、一八九七年にベルギーでスタートしたもの。名古屋会議は三十回目の節目で、世界五十三カ国から計二千二百人が出席した。
 ブルガリアの医師が、プロポリスを含んだ蜜蝋が関節障害の患者に有効に作用したと症例を紹介。ハンガリーとポーランドの医師も、ラットを使った実験で抗細菌・抗炎症などの薬効が認められたと報告した。
 外敵の侵入を防ぎ、巣内の衛生を保つためにつくりだされるプロポリス。多くの養蜂家は、それまでゴミとして扱ってきた。この時初めて、とてつもない力を秘めているのだと認識が改められた。
 さらに国立予防衛生研究所と協和発酵東京研究所の研究グループが九一年十月に、ブラジル産プロポリスの成分中に抗がん効果のある化合物を発見したと発表。人気が一気に加速した。〃宝物〃に変身するや、プロポリスは日系企業にとって垂涎の的になった。
    ◇◇◇
 「八〇年代の後半に、資本提携と全生産を引き受ける替わりに販売権を渡すように提示されたことがある」。林プロポリス(サンパウロ市カンブシ区)の林新三社長(61、新潟県出身)は、過熱ぶりを振り返る。八〇年代当時既に民間薬としての有用性を見抜いていたとはいえ、大ヒットを飛ばすとは予想外のことだった。
 「種子島から北海道までの転地養蜂に従事し、海外での養蜂を志して七〇年に渡伯しました。当時事業団で専業養蜂移住者の前例がなく、自身で(受け入れ先)を捜さなければならなかったんですよ」。
 林社長は一旦、イタクァケセツーバの養鶏場に勤務。月に一回、蜜蜂の研究所に通って造詣を深めた。一年後に研究官の紹介状を携え、実態調査とパトロン探しの旅に出発。リオ・クラーロ(サンパウロ市から百八十キロ)で、ポルトガル系の養蜂家と歩合で働くことに決まった。
 仕事の傍らプロポリスの開発を試みた。実は肝炎を患い、自身の健康にも役に立つと思ったからだ。利益を得始めるまでの六年間、毎月七十人~八十人に試作品を無料配布。原塊(プロポリス原料)がいつ、どこでとれたものかをデーターにまとめ、地域別のランク付けも行った。
 現在、抽出工場をカンブシ区に構えている。サンパウロ市を中心にローヤルゼリー・蜂蜜・花粉などの販売をしながらプロポリスを配っているうちに、徐々に名が売れるようになり日系進出企業数社から商談が入った。
 しかし考慮の末、交渉はいずれも白紙撤回した。量産を迫られると、商品の質を落としてしまいかねないと不安になったからだ。
 原塊はピンからキリまで。仲買人が勧めても生産現場を視察した上、視覚・嗅覚・味覚を働かせて品質を判断してからでないと購入しない。「いいものは、一般よりも高く買い上げる」とこだわりをみせる。
 ここ十年余りの間に競争相手が激増。日本向け商品の出荷は苦戦を強いられている。「良質品を提供する生産者と真面目に使用する消費者の連携で、好結果が得られるという信条を持っています」と林社長。自身のスタイルを崩して、目先の利益や安さだけを追究するつもりはない。(つづく)

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