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楠野隆夫を追悼した企画―「舞踏の軌跡」報告(下)=つの枠に収まらぬ世界―体の読み方は無限

10月2日(木)

  メイン会場だったSESCコンソラソン。界隈は「両性具有」の街娼が立ち並ぶスポットでもある。
 行き帰りに「舞踏」の男性ダンサーについて思いが及んだ。なぜ、白塗り、女装でしばし登場するか、と。歌舞伎の世界では男性が女性役を演じる「女形(おやま)」は伝統だが。
 「本質的に人は両性を持っている。本来の姿を踊れば自然に両性の方向へ向かう。クラシックバレエが男性・女性の役割を技術、靴に至るまで限定するのと『舞踏』は対照的」
 今回、大野一雄が過去に着た衣装をまとって踊った笠井叡はこう語った。
 記者会見でいわく「舞踏」とは、「演劇と違って直接言葉を持たずに、世界のすべてを融合、合一していくもの」
     ◇
 舞台では着物、ドレスから、ふんどしまで披露。その動きを評し、フォーリャ紙批評家のイネス・ボゲアは、「空虚の中を軽やかに揺れ、一挙手一投足が固有の時間を持ち象徴性に満ちていた」としていたが、宇宙を抱き締めるかのような身振りにもみえた。そんな感覚は一体どこから来るか。
 「羽衣には人と宇宙をつなぐものとしての役割があり、十二単(ひとえ)には宇宙の構造を着込もうとする意識がある。『舞踏』を含めたアジアのダンスは西欧のダンスが基準とする骨格ではなく、体を覆う物から生まれる」
 笠井によれば、西洋人は骨が固く、東洋人は柔らかい。ひいては「柔らかな人体が男性、女性の壁を乗り越えることを容易にしている」
 また、骨格を中心とすると正面が表になるが、着物ではその展示に現れるように、背中が正面。つまり、「舞踏」においては背中が正面である、とも。
 背中の重要性は、共演者の大野慶人も強調していた。ただ、最近の日本では「背中がおろそかにされがち」と指摘する。「昔の母親は子供に怖い話をした。背後から忍び寄る恐怖を語ることで自然に背中を教育していた。いまは映画やテレビでのホラーも正面から。背中の怖さがない」
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 同じ舞台を踏んだのは六〇年代以来という笠井と大野。今イベントで発表した「おまえのために花咲こう!咲き誇りながら!」は、「植物で行きたいと思って作った。堅い根っこと柔らかい花びら。月は一カ月かけて満ち欠けるが、花は一瞬に散る」がテーマ。花は笠井、根は大野が担当した。
 ユダヤ系ドイツ人パウル・ツァラーの詩集「無き者のばら」に触発された作品でもある。
 ぼくらはかつて無であり いまなお無であり
 将来も無のままであるだろう
 花咲きながら―無のだれ
 でもない者のばら
 自然現象を表現していく手法は「舞踏」に顕著だが、「おまえのために―」ではそれよりも、まず自分の中に咲く花を見出だし、咲かせることが大切、といっているように思えた。
 「自分は何者なのか、自己探求のために『舞踏』をやっている」とは和栗由紀夫だ。「舞踏」の創始土方巽の最後の弟子になる。「野の婚礼―螺旋の季節の中へ」で、四季を彷徨する「地の神」を演じた。
 日本の古典芸能の型を随所にみせたが、それは表象的なこと。本人に言わせれば、「人間自体が一つの神秘的な存在だと分かってもらえればいい。把握仕切れない人間の肉体を舞台にのっけることが『舞踏』だと思うから」
 一方、不可思議な生き物たちの幻想絵巻とも言えた「ノクターン」が好評だった舞踏舎「天鶏」の鳥居えびすは、「『舞踏』はひとつ枠に収まる世界ではない」という意見だった。
 形作られてしまっている踊りではない、とみている点で笠井の言葉とも共鳴する。「体の読み方は無限でしょう。それを掘り下げていくのが『舞踏』。何かを守ろうとするところに『舞踏』はありません」
 「舞踏」の軌跡とはこれまでもこれからも単線であり得ず、常に新たな身体芸術の地平を切り開こうとする多様な試みがそこには刻まれていきそうだ。         (小林大祐記者)

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