日本移民にとって「アンシェッタ」と言えばサントス街道を思う人が多い。あるいはセ広場にある右手に十字架を掲げる大きな銅像を胸に描く移民もいよう。明日一月二十五日は、当時十九歳とされるアンシェッタ修道士らがパチオ・ド・コレジオを建て初めてのミサを行い、この日がたまたま使徒サン・パウロ祭典なので市の名にしたのである▼四百五十年も昔のことである。あの頃、この広大な地はインディオが支配している。勿論、ポルガル人はいなく原始林の繁茂が王様であり、オンサや獣が伸び伸びと闊歩している。そんな山間僻地に乗り込んだアンシェッタはジェズイト派であり布教の信念に燃える青年僧である。ルターの宗教改革から二十年ほど後の一五四〇年に立ち上がったカトリックの改革を目指す団体であり信仰への情熱は固く人種への差別感もない▼ちなみに日本にカトリックを伝えたザビエル神父もやはりジェズイトである。こうした宗教的な布教を志す動きがブラジルは言うまでもなくポルトガルの植民地経営には大きな影響力を持ったのは歴史が示す通りである。あれから四百五十年。この町は大きく変わった。州の人口は明治維新の頃には八十万人。市制四百年祭のサンパウロ市は二百三十万人▼それがこの五十年で一千万人を突破する急成長なのである。高層ビルが軒を並べコンクリートの街が出現はした。暮らしは便利になったし家電製品も広く行き渡るようにもなったけれども、人の情は薄れてゆくばかりで下町が誇る風情が消えると映るのは異端者の眼だからか。 (遯)
04/01/24