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続・海を渡ったサムライたち=日伯セレソン物語=田中マルクス闘莉王(下)=父、敬愛する唯一の男=アテネでの再会めざす

3月11日(木)

  背番号二十八を付けた一八五センチの大男は鮮やかに宙を舞った。
 昨年七月二十六日、闘莉王が所属するJ2の水戸ホーリーホックはヴァンフォーレ甲府と対戦。前半二十九分、味方FKのこぼれ球に反応した闘莉王は、ブラジル人ならではのオーバーヘッドキックで先制点をもぎ取った。
 満面の笑顔で観客席に、走り出す闘莉王。その先には涙を浮かべて喜ぶ最愛の母の姿があった。
 帰化申請からまだ三カ月。まだ名前は、「トゥーリオ」だった。複雑な思いに揺れる母、マデルリ・マリア・ムルザニ・タナカ(四八)は、愛息の招きで初めて日本を訪れていた。
 「私たちは結び付きが強い一家。だから息子が遠い遠い日本に行くのは寂しかった」。述懐するイタリア系のマリア。
 当初、闘莉王の帰化についても反対はしたが、胸の内はこうだった。
 「あの子は本当にいい息子。なのに遠くに行ってしまうような気がして……」
 そんな母を納得させたのは闘莉王の強い意思だった。「彼の夢が叶えば、それが私の幸せになる。母親とはそんなものなのよ」
 国籍が変わろうと、母の愛は変わらない。
  ○  ○  ○
 「お父さんに怒られる」
 初めて日の丸を背負ったイラン戦。自らの反則が失点につながったことに闘莉王は試合後、頭をかいた。
 遠くから見守るマリアとは対照的に、父、パウロ(五一)は自らの背中で男の生き方を教え込んだ。
 「本当にすごいお父さん。僕もああなりたい」
 代表選手に成長した今でも、闘莉王が敬愛する男はただ一人。父である。
 一九八一年四月二十四日、長男として誕生した闘莉王にパウロは自らの日本の名前「隆二」を与えた。
 帰化後の戸籍には「マルクス・闘莉王・ユウジ・ムルザニ・田中」と長い名が記されるが、本来はユウジでなくリュウジが正解だ。
 熱狂的なパウメイラスサポーターであるパウロは、幼少からサッカーに熱中した。闘莉王がサッカーを始めたのも、父の影響だ。
 「サッカーのプロより、夢はパイロットだった」と語るパウロは、理数科系の教師を務めた後、九九年に退職。教師の傍ら、法律の勉強を続け、九八年に弁護士の資格を取得している。
 《やらずに後悔するより、やって後悔しろ》
 《気持ちを強く持って、前に進め》
 パウロの口癖だ。
 十六歳の闘莉王が「三日以内で決めてくれ」と日本行きを迫られたときに即答できたのも、父の教えなくしてありえなかった。
 「引退後は、獣医になり好きな動物を見続けたい」 その向上心も父譲りだ。
  ○  ○  ○
 ほんの八日前、水戸地方法務局から祖父母の国へ帰化申請を認められた男は、試合後に思わず涙した。
 「日本人」として初めて挑んだ昨年十月十八日の対アルビレックス新潟戦。闘莉王は、得意のヘディングで決勝ゴールを奪い、帰化に自ら花を添えた。
 辛かった渋谷幕張時代。外国人枠の問題で下部リーグへ移籍、劣悪な環境でボールを追った一年――走馬灯のごとく、六年間の日々が頭をよぎった。
 それだけに日本人としての誇りは、人一倍高い。
 「本当はね、勝利の利を使って『闘利王』にしたかったんです。でもちょっとくどいと言われて……」
 携帯電話の辞書機能とにらめっこしながら、新しい名前を考え続けた、と照れ笑いを見せる闘莉王。
 高校時代に、怠慢プレーを見せた先輩ブラジル人の首根っこをつかんで怒鳴った、とのエピソードを持つ男ならではの命名である。
 「僕が背負っているのは国。日の丸は誇りそのものなんです」
 近代五輪の聖地を目指す日系三世――。最愛の家族とはアテネで再会するつもりだ。 
   (敬称略、終わり)
    (下薗昌記記者)

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