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イタペセリカ日本語学校「古希」=戦時中も〃もぐって〃授業――過去1度も途切れることなく=来月記念式典=「伝統守って行こう」

2005年9月22日(木)

 古希を祝いましょう──。イタペセリカ・ダ・セーラ日本語学校の創立七十周年記念式典が十月十六日午前九時から、同市の文化体育協会会館で開かれる。外国語教育に対する規制にも屈せず、戦前から一度も途切れることなく続いた学校の一つ。当日は卒業生など五百~六百人が集まり、先駆者らを追悼。伝統を守っていくことを確かめ合う予定だ。
 イタペセリカに日本人が入植したのは一九一五年だったとされる。日本人会が創立されたのは二十年後の一九三五年。多くはコチア産業組合に入っていたので、新たな団体をつくる必要がなかったと考えられていた。
 しかし、三〇年代の半ばには入植者数が六十世帯を数えて子弟教育が頭をもたげてきた上にコチア小学校(一九一六年創立)などに刺激を受け、入植者らは三五年に日本人会を組織し直ちに学校建設に着手した。
 「先生は厳しかったですネ。大和魂を叩き込まれました」。OBの一人、谷川清憲さん(73、鹿児島県出身)は在学中の思い出を懐かしむ。三七年~四四年まで同校に在籍した。毎週金曜日に修身の時間があり、日本の学校の延長線上として上級生に教育勅語などを教えた。複式授業だったので、低学年でも教育勅語をそばで聞いて暗記する生徒がいたという。
 ブラジル政府は先の戦争中、特に枢軸国に対して外国語教育の規制を強化したため、一部の保護者らが学校を閉鎖すべきだと主張。ブラジル学校だけ継続させることになった。教師側が強硬に反対して崖に穴を掘り、〃地下〃にもぐって日本語教育を続けた。
 「授業はブラジル学校が終わった午後からで、柔道がしたくて日本語学校に通いました。教科書は柔道着の中に隠して持ち歩いた。女子は怖くなって途中でやめていったので、最後は男子だけになりました」と谷川さん。
 子弟教育への情熱と明治の精神は戦後にも引き継がれ、奉安殿の設置という形に集約された。大半が勝ち組だったので、戦前の思想は受け入れられやすかったのかもしれない。
 運営団体のイタペセリカ文化体育協会(長野建造会長)は、今も奉安殿を所有。毎年新年に教育勅語の奉読や東方遥拝を行っていることで話題を呼んでいる。もちろん現在教室では教育勅語を教えず、同協会の習慣として続いてきているようだ。
 実行委員の簗瀬秀徳さん(68、鹿児島県出身)は「きちんと区切りをつけ、これからも学校を守っていくのだとみんなで確認したい」と意義を説明。当日は、法要、歴代会長・婦人会長・教師、敬老者(七十五歳以上)への記念品の贈呈などが予定している。
 デカセギの影響などがあって、生徒数は二十数人だ。古希の祝いには伝統の灯を消したくないという関係者の願いが込められている。

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