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■記者の眼■――――15年でデカセギ問題を解決する方法

2006年9月30日付け

 デカセギブームが始まって、今年で二十一年目。法務省の外国人受け入れを検討するチームの河野太郎主査(衆議)は「日系人受け入れは失敗だった」とし、「日系人優先を辞める」方向性まで出された。
 ある意味、日本社会の右傾化や外国人排斥的な動きに沿って、そのスケープゴート(生けにえ)に日系人が選ばれたと言えるかもしれない。
 この「失敗」という言葉は本来、態勢を整えずに受け入れたことが失敗だった、つまり、本来は日本側の責任を問う発言であったと理解していた。
 だが今回発表された方向性は「日系人優先を廃止」「ビザの更新のときに日本語能力や定職が必要」というもので、まるで日系人側が悪かったかのような結論。海外日系人大会でも批判が相次いだ。一体どういうことなのか。まったく腑に落ちない。
 確かに帰伯逃亡デカセギ問題、ブラジル人犯罪の多発、子弟の教育問題、日本人の地域住民との摩擦など難問は山積みだ。
 だが、受け入れ態勢ができていれば、このような問題の相当部分は未然に防げたかもしれない。
 「雇用の調整弁」である外国人労働者に、残念ながら、安定した就労環境という〃態勢〃は用意されていなかった。
 就労環境の安定なくして「共生社会」なんて、ただのかけ声に過ぎない。
 もし外国人が直接雇用されていれば、いろいろな問題が一気に解決する。直接雇用なら厚生年金に加入義務があるから、病院での治療費不払い問題や、医療を受けられないという問題は起きない。
 一つの会社にずっといるから、子どもが転校する必要がなく、日本社会に適応しやすい。同じ場所に住み続けるから、住民とも徐々に顔見知りになり、ゴミ捨てや騒音問題も減っていく。
 特に子弟教育は重要だ。五歳から十歳の性格形成期に、論理的な思考ができるようにしっかりと教育を受けさせることが重要であることはいうまでもない。言葉の種類は二の次だ。
 日本にいる以上、ポ語で充実した教育を受けられる条件は一部地域に限定されている。日本の公立学校にやるのが、質的にもコスト的にも現実的だ。まずは日本語でしっかりした教育を受けさせ、その上で、ポ語での教育を自費でやっていくしかない。
 一般的には、高校より大学と、より高等教育を受けた子どもほど日本の文化や習慣を知り国を尊重するようになる。その結果、移住一世である親(日系二世や三世)に対し、日本の事情を教える良き教師となる。子どもが大きくなるほど、言葉ができなくて誤解を起こしやすい一世と日本社会との間に入って、仲介的な行動をとるようになる。
 問題を起こす集団に対して対処は二種類ある。「追い出す」か「さらに受け入れる」かだ。外国人を追い出すのか、より教育を受けさせて良き市民として育て上げるか。これは国としての、大きな分岐点だ。
 現在七歳の外国人子弟が公立学校で勉強をはじめ、二十二歳で大学を卒業したら、十五年後に外国人として良き日本市民になっている。そうなれば、どんどん日本社会との問題は減る。日本社会に理解の深い外国人中間層をいかに増やすかが方策だろう。そのシステムが確立すれば十五年間で外国人問題の目処はつく。
 移住一世に現地の言葉を覚えさせようとしても限界がある。鍵は二世以降の世代を、いかに現地社会に取り込むかだ。中間層となる二世への教育が最優先課題だが、そのためには親の直接雇用が前提だ。
 もちろん、一連の外国人問題の責任の一端が日系人側にもあることは、否定のしようもない。
 〃態勢〃の問題までも外国人の責任に転嫁して、「ビザを厳しくすれば問題が減る」みたいな対処療法をしているうちは、根本的解決にはならない。
 結局、本当なら日本人の若者が直面するべき状況を、外国人労働者に肩代わりさせているから、問題が外国人に集中して起きると言えないだろうか。
 外国人が犯罪を起こしやすいのでなく、起こしやすい環境に外国人を押し込めている日本側にも責任がある。それとも、産業界が欲しているのは「雇用の調節弁」だから、政府は目を瞑り続けるのか。
 本来、日本国内のデカセギ問題と、海外の日系人は表裏一体であり、セットで考えられるべきだと思う。国内において「中間層」を増やすことと、海外の日系社会との絆を強めることは、合わせ鏡のようなものだ。
 日系人全体との関係を総合的に扱う政府方針の一部として、ドミニカ移民の補償問題や、国内デカセギ対策があってもいい。海外日系人をどう積極活用していくのか。
 外国人労働問題を端緒に、このような総合的な取り組みが生まれることを期待したい。  (深)

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